竜ヶ岳

3連休初日の11月3日、鈴鹿イレブンの竜ヶ岳に登りました。天気は晴れマークが並ぶ登山日和で時折流れるように吹く風は冷たかったものの暑い一日でした。私にとっては骨折後初の本格的な登山で右足首だけでなく脚全体を気づかいながらの山行だったので「時間がかかったな」とYamapのデータを見ていました。ところが前回2021年11月のデータとほぼ同じとわかって驚きました。私の山行はスピードが遅いことに加えて写真を撮るためにあちこちで小休止となるので標準とされるコースタイムの1.5倍くらいかかってしまいます。右足首は体重をかけるには問題はないのですがまだ思うように動きません。その状態でほぼ同タイムなのでそれが私の「実力」なのかと苦笑をしてしまいました。以下、備忘のために記します。

【今回】2023年11月3日
タイム8:41,距離11.1km,のぼり1054m,くだり1056m,平均ペース110-130%,消費カロリー1983kcal

【前回】2021年11月6日
タイム8:35,距離10.09km,のぼり997m,くだり989m,平均ペース90-110%,消費カロリー1951kcal

竜ヶ岳は宇賀渓から遠足尾根のコースをピストンしました。頂上付近へのアプローチは視界が開けて気持ちよく、もっと時間をかけて景色を堪能しながら歩きたいと思ったほどです。空は湿度が高いのか遠くの山々は霞がかかって春の景色のようでしたが真上は晴天で頂上で仰向けに寝転がっても顔が熱くて2~3分が限界でした。同行の知人が淹れてくれたコーヒーをいただきながら1時間弱滞在して下山をしました。私にとっては難易度、体力ともに竜ヶ岳が限界かと思いました。

遠足尾根はこの2年の間に整備が始まっていて稜線の一部には木道が設置されていました。頂上への最終アプローチに続く荒れたところには木枠と大き目の石が埋め込まれて歩きやすくなっていました。宇賀渓キャンプ場は北欧風のロッジが建てられてオープンしたとのことですが今回はそこまで行きませんでした。

竜のコバ(宇賀渓観光案内所)

児童合唱

今週、小学校5年生の学年合唱を指導する機会が2回ありました。市内の連合音楽会に向けての練習です。日頃から歌いなれている子どもたちなので「こう歌って!」という指示になんとか付いていこうと約100人の子どもたちの躍動が伝わってきました。

曲は「もみじ」と「気球に乗ってどこまでも」の2曲です。どちらも3度の和音が平行するところが難しいわけですが「音を狙って!」と人差し指で音の上がり下がりを示すと面白いくらい付いてきました。

私が担当したのは2時間で、2回目のときはちょっと欲を出して「音楽に表情を付けよう」と切り出しました。表情の付け方のひとつ、楽譜の強弱記号の通りに歌ってと言うと冒頭を楽譜通りmp(メゾピアノ)で歌い始めるのは「違和感があります」と質問がありました。mpやpでの演奏は音楽の醍醐味のひとつですが小学生にはちょっと難しいか。それでも冒頭をmpで歌い始めようとする子どもたちの表情は真剣でした。

練習が進むにつれて身体(からだ)を揺らしたり手を回すように動かしたりと身体全体で奏でようとしている子どもが増えてきました。2時間で私が手がけたことはほんのわずかですが「先生の時間はこれでおしまい」と言うと「エーッ!」という声がして楽しんでくれたことが伝わってきました。

思い返すと小学校で合唱の指導をしたのは25年ぶりでした。それこそ「エーッ!」と思いました。それでも指がピアノ伴奏を覚えているのは人間の驚異なのでしょう。「気球に乗ってどこまでも」は初任の山里の学校の講堂で古いグランドピアノを夜な夜な練習した曲です。今週のように小学生の合唱を指導する機会はこの先ないかもしれない。それでいいわけですが、そう思うほど私にはとても楽しい2時間でした。

昨年、小学校の音楽の副教材のCDのセットと伴奏集、数冊の歌集を揃えました。教室に入りづらくいわゆる別室に登校する子どもたちといっしょに歌うためです。何曲かはパートに分かれて合唱もしました。その時、ひとりの子が「もみじ」という歌を知らないとつぶやいたとき、私の中で何か鉄槌のようなものが振り下ろされたように思いました。それが何だったのかは今もわかりません。「もみじ」を知らないとはどういうことか。別に「もみじ」を知らなくてもおとなになれるし生きていくことに差し障りがあるわけではありません。でも、私は「それってどういうことなのか」と自分に問いました。今も問い続けています。

昨年調達した児童合唱のCDはお気に入りを選んでオデッセイのHDDに入れてよく聴いています。私が小学校を離れて四半世紀の間にすてきな歌がたくさん生まれたことを知りました。子どものときにしか奏でられない児童合唱は珠玉の音楽だと思います。

山行とその支度

昨日は八ヶ岳に行く予定でしたが現地の天候が良くないので地元の香肌イレブンの烏岳に登ってきました。駐車場から山頂まで半分くらいは茶畑の中のアスファルト舗装の道路とコンクリート舗装の林道でしたがその林道が曲者でした。急坂で3か所ほど流れる水で苔むしているのです。登るときから下山は相当苦労することが予感どころか実感するものがありました。果たして、その坂を下るときは足を数センチずつ動かすのがやっとでほとほと疲れました。知人はここで登頂を断念した理由がわかりました。そんな下山の不安がありながらも山頂は南北に開けていて淹れたてのコーヒーをいただきながらしばしその爽快感に浸りました。

私が行く山は技術度も体力度も高くはありませんがその支度は私なりにあれこれ考えてそれもまた山行の楽しみです。昨日は今回の山行には使わないザックを丸洗いしました。5月に白駒の池の遊歩道で残雪に足を取られて転倒して骨折したときに背負っていたオスプレーのケストレル38です。色は赤で見た目は底に土が薄っすらと付いているくらいでしたがバスタブに15㎝くらい湯を入れて中性洗剤を少し垂らして浸けてもみ洗いをしていくと目に見えるゴミが無数というくらい出て湯は茶色になっていきました。シャワーですすぎをすると最後の最後に5㎝くらいのY字形の木の枝が出てきたのは驚きました。どこに潜んでいたのだろうと。朝洗ってサンルームに干しておくと昨日のうちに乾きました。ザックのファスナーは使っているうちにだんだん動きづらくなってくるものですが丸洗いの後はスムーズに動きました。ザックは1回の山行で汗と泥などですぐ汚れますが度々洗ってあげようと思いました。

また昨日は下山後に香肌イレブンの地元の温泉にコロナ前以来久しぶりに入ってきました。露天風呂一択でした。露天風呂のすぐ前の木々がずいぶん成長していて川の反対側の山の稜線が見づらくなっていました。湯はそう熱くはなく時々上半身だけ湯から出るように座りながらずいぶん長く入っていました。次第に灰色の雲が流れてきて雨が降り出すとなんだかわくわくしてきました。顔に冷たい雨粒があたることで今その時生きていることがストレートに嬉しく思われてきました。雲のまだら模様を見上げて湯に浸かっていると雨が止んで日差しが差し込んできました。雲が流れて青空も見えてきました。「エネルギーをためる」という表現はこんなとき当てはまるのだろうと思いました。

翌日の今日の朝、右足首は腫れも痛みもなくほっとしました。

大正新教育を巡る本たち

門脇厚司『大正新教育が育てた力 「池袋児童の村小学校」と子どもたちの軌跡』(岩波書店 2022)』から芋づる式に知ることになった本が昨日今日と届きました。

■宇佐美承『椎の木学校 児童の村」物語』(新潮社 1983)
池袋児童の村小学校が台の物語ですが登場人物などの解説がコラム風に挿入されていてドキュメントの色彩があります。登場人物の「生」の声は門脇厚司『大正新教育が育てた力 「池袋児童の村小学校」と子どもたちの軌跡』のアンケートとインタビューを参照することでドキュメンタリー番組を観るようです。

■戸塚廉『児童の村と生活学校 ー野に立つ教師五十年 2ー』(双柿舎 1978)
戸塚廉は池袋児童の村小学校の元教員で池袋児童の村小学校を離れることになった後も雑誌『生活学校』を出版し続けて同校を支援したとのことです。当時の社会背景や裏話がふんだんで貴重な資料です。証言であり一次資料と位置づけられるでしょう。

■石戸谷哲夫・門脇厚司編『日本教員社会史研究』(亜紀書房 1981)
門脇厚司は池袋児童の村小学校の創設から終息の経緯をこちらで書いています。『大正新教育が育てた力 「池袋児童の村小学校」と子どもたちの軌跡』とは文脈が異なります。また、この本の執筆者の中に三重県の現役(当時)の教員ふたりが含まれていることに目が留まりました。ひとりは小学校の教諭、もうひとりは今はなき三重県立幼稚園教員養成所の教諭です。現役の教員でこうした研究書の執筆をするのも「先生」のあり様のひとつと思います。

■橋本美保・田中智志『大正新教育の実践 交響する自由へ』(東信堂 2021)
『大正新教育の思想 ―生命の躍動―』(東信堂 2015)と『大正新教育の受容史』(東信堂 2018)とともに三部作で3冊揃いました。大正新教育の「実践」を俯瞰する本と言えます。情報量は膨大です。

■清水満・小松和彦・松本健義『幼児教育知の探究11 表現芸術の世界』(萌林書林 2010)

私がなぜ池袋児童の村小学校に惹かれるのか。門脇厚司『大正新教育が育てた力 「池袋児童の村小学校」と子どもたちの軌跡』で池袋児童の村小学校に在籍した人たちのアンケートとインタビューを読むにつけて先月末に訪問した長野県の小学校で目の当たりにした子どもたちの姿が重なって仕方がないからです。あれは何だったのだろうと、日が経つにつれて子どもたちの姿が鮮明になってきています。そして、大正新教育は今こそ学ぶべき教育の原点がそこにあるのではないかと、そんな予感があります。

門脇厚司『大正自由教育が育てた力 「池袋児童の村小学校」と子どもたちの軌跡』

門脇厚司著『大正新教育が育てた力 「池袋児童の村小学校」と子どもたちの軌跡』(岩波書店 2022)は浅井幸子著『教師の語りと新教育―「児童の村」の1920年代』(東京大学出版会 2008)を読んでいてそのタイトルから気になって取り寄せたところ驚くべき内容でした。「まえがき」は次の冒頭から始まります。

本書は端的に言えば、今からほぼ100年前の1924(大正12)年の4月、大正大震災(関東大震災)の翌年、現在のJR池袋駅の近くに創設者の一人であった野口援太郎の自宅を校舎に開校した「池袋児童の村小学校」(正式名・池袋児童の村尋常小学校)」という一風変わった名前の小学校に学び卒業した児童たちが、その後どのような人間として育ち、どのような人生を辿り、どのような晩年を送ることになったかを検証した結果を報告するものです。(同書 P.ⅶ)

そして、「まえがき」の終わり際にはこうあります。

あるべき教育についての研究は数多く行われてきました。そして、その中の多くの人たちが個性を重視する教育の大事さと必要性について語ってきました。しかし、実際にそのような教育を行ったらどのような結果をもたらすのか。肝心要のそのことについて実際に検証することなく終わってしまっていたことが、個性教育に舵を切れなかったことの大きな理由と言っていいでしょう。

実際、この314ページの本書のうちおよそ三分の一の112ページは在校した元児童のアンケートとインタビューの報告に充てられていてこれが不謹慎な言い方ですがめっぽう面白いのです。にわかには信じられない回想や感想などが率直に語られています。

児童の村で身に付いたことは、自分で考えて納得しなければ承知できない人間に育ててくれたこと。また、学習は楽しい実践であることを体得した。児童の村で学べたことは幸いであった。(中略)児童の村は完全な無秩序なんですよ。個人的には児童の村でものすごくよかったと思います。何よりも子どもの時に充実した生活ができたということなんですね。(同書 P.250)

54人のアンケートやインタビュー、故人となった元在校生の家族の回想が異口同音にほぼこうした方向で語られているのです。

時間に追われることなく外で遊んだり自然観察をしたり、観劇に出向いたり、異年齢の子どもたちが一つの教室でそれぞれに算数などに取り組むなどしたりしていたことが伝わってきます。習字をしなかったので皆字が下手だったり中学校に進んたとき「回れ右」ができなかったりしたようです。全国学力学習状況調査や進学校の「実績」で云々される今日とはまるでちがう学校であったことがわかります。

そのような学校に子どもを通わせることに不安になった親が転校させることも少なくなかったようです。しかし、同校に在籍した子どもたちのその後、そして、おとなになってから池袋児童の村小学校で過ごした子どもの頃とそこで育まれた自分自身をどう思っているかの語りは今日においては尚更注目するべき示唆に富んでいると言えるでしょう。

あまりたくさん引用すると著作権侵害になりそうですが54人の元在校生の声はそのすべてをここで紹介したいくらいの貴重な「証言」だと考えています。

なお、著者の門脇厚司氏がアンケートとインタビューを行ったのは1982年で、この本の上梓は昨年2022年なのでその間40年の年月が過ぎたことになります。著者は「池袋児童の村小学校の卒業生たちと元教師たちの存命中に本書を目にしていただけなかったこと」に「申し訳なさと同時に慙愧の念が募ります」と「あとがき」に記しています。氏は今年83歳になります。そこかしこの書きぶりに渾身の思いが感じられてなりません。そして、50人を越える元在校生の率直な語りをこうしてまとめて世に送り出していただいたことに敬服し感謝しています。このブログをここまで読んでくださったらぜひこの本を手にしていただきたいと切に願うばかりです。

※この記事は後日修正します。(2023.10.14)

5か月ぶりの山行

先週末、近くの堀坂山(757m)に登りました。468mの堀坂峠からのピストンなので大したことはないのですが5月4日に右足首を骨折してから約5か月ぶりとなります。右足首の違和感は残りますが足首をサポートするミッドカットやハイカットのトレッキングシューズだとその違和感をあまり意識することなく歩くことができます。登山も然りでした。登山には欠かせないCANON EOS M5で写真を撮りながらの登攀なのでペースはゆったりで身体に無理はありません。新調したトレッキングポールもやや重いもののカーボンのような適度の弾性があって余分な振動はないという快適なもので姿勢のバランスを取るのに役立ちました。足首の痛みは全くなく、違和感も時々の小さなものでした。伊勢平野と伊勢湾を見渡す頂上の展望にしばらく見入りました。新型コロナには気をつけなければなりませんがアルプス方面への遠征も計画したいと考えています。

5か月ぶりにフル装備を纏っての感想はハイカットの登山靴はじめ備えあれば患いなしでした。前日から持ち物を一つひとつチェックし始めると一気に登山モードとなりました。晴天とわかっていてもゴアテックスのレインウエアを持ち、午前中のみの活動とわかっていてもヘッドライトを持つ。薄手ですが防寒着を持って水も多めに持つ。そしてリュックのストラップを順に締めていくと気持ちが引き締まる。それゆえにその緊張感が緩んでチェーンスパイクを外した5月の山行が悔やまれます。

第九を歌うということ

先週、大阪に滞在中に勤務先近くの文化施設から主催する第九合唱団に「参加可」の連絡がメールで届きました。ふと思い立って応募したもので応募者多数のときは抽選とのことでしたが男声は足りないので経験者に呼びかけてほしいともありました。それを読んでいっしょに歌いたかった知人を思い浮かべました。

彼は私と同年齢で高校も大学も違いましたが音楽を通して事あるたびに顔を合わせて交流があり、同じ仕事に就いたこともあって研修などでいっしょになることもありました。また、市内に住んでいたので近くのスーパーで何度か偶然出会っては立ち話をしてきました。いつも笑顔で飄々として「またな」と言って別れたものです。

彼は早期退職をして小学校で音楽などの非常勤講師をしていました。彼は子どもの頃から音楽、とりわけ歌に親しみ、高校は違いましたが合唱部同士のライバルで大学は音楽大学に進みました。小学校の教員になったのも私と同じタイミングで彼も私も一時は音楽専科でした。音楽の話題が豊富な彼のブログやフェイスブック、ツィッターはよく読んで彼の博識から多くを学びました。そう、今となってはすべてが過去のものとなってしまいました。自分の病気のこと、検査や手術のことを書き込むようになり、自分のレントゲン写真までアップすることもありました。そのうちに病状が厳しくなってきたことが伝えられるようになり、昨年、闘病の末に亡くなりました。

「去る者は日日に疎し」という諺がありますが彼は違います。今回も彼といっしょに第九を歌いたかったと、そして、彼といっしょに歌っていると思って歌いたいと思います。彼のように飄々と歌いたいと思います。多くのエピソードは書けませんがその一つひとつは鮮明に記憶に残り続けます。

3年ぶりの対面の学会*東京にて

この土日は3年ぶりの対面開催の学会でした。そもそもナラティブベースが研究の根幹をなす領域の学会だったので対面冥利に尽きるものでした。グループワークにおいてはなおさらでした。倫理上の配慮があっての学会発表ですが研究手法上デリケートな一面があるのでその内容をここに書くのは憚られます。一般的な記述に留めますが、現象学的アプローチは数量ベースのデータでは埋もれてしまいかねない一人ひとりの経験を描くうえでやはり優れた手法であるとあらためて思いました。その手法で学校教育を研究の対象とするとき、それまで見えなかったものが見えてくる、言語化されてくる、浮かび上がってくるのは私も経験しているところです。数値化されたエビデンスとは正反対のアプローチとも言えますがそのプロセスや見えてきたものをていねいに、相手が欲しい言葉で伝える試みを続けていきたいと思いました。2日目最後の鼎談では具体例をあげてそれゆえの危うさがあるという厳しい指摘があり、会場の空気がさっと変わるのがわかりました。私は鼎談の最後までいられませんでしたがその後がたいへん気になりました。

会場は東京の大学で新幹線も3年ぶりでした。街を歩くのも3年ぶり。JRのエクスプレス予約を使うのも3年ぶりでした。モバイルSuicaとの連携は未設定なので改札で手続きをしながらでしたが駅に到着する時刻に目途がついてから手元のスマホ予約できるので券売機等に並ぶ必要がなくとても便利でした。しかも割引があって1往復すると年会費はすぐ取り戻せるという美味しい仕組みです。考えてみれば単純なことですがスマホが介在するこうしたシステムは至極便利でした。あちこちでこうしたデジタル化が進んでいて、帰路の恵比寿駅構内のパン屋で買い物するときに思わず現金を出したら店の人が「えっ!」という表情になってあたふたとおつりの用意をしているのがパンケース越しに見えて可笑しくなりました。

猛暑の東京は消耗しましたが学会でエネルギーをいただきました。やっと夏休みに相応しい勉強の時間が持てました。

大阪にて

所用で大阪に1泊しました。昨日は鹿児島に行く知人を送りに新大阪駅に行ったところ台風7号の影響が続いていて新大阪始発の九州新幹線さくらやみずほまでもが70分とか110分遅れとか。改札前の電光掲示板をひたすら見てホームに入るタイミングを探ることになりました。列車は順に走るので順に遅れるものと思っていましたが、電光掲示板を見ていると必ずしも時刻表の順に遅れて発車するわけではないことがわかってきました。スマホで各列車の運行状況をチェックすると乗車予定のさくらがほどなく新大阪駅に入ってくることがわかってあたふたとホームに向かいました。時刻表ではその前に発車するはずのさくらよりも早いという逆転が起こっていました。車両のやりくりからそうなることは考えればさもありなんです。1時間20分遅れのさくらに無事乗車して見送ることができました。

昨日今日とリフレッシュ休暇を取ってあるのでそのまま大阪に留まって1泊した次第です。昨日はまず期限が迫っている仕事をスタバで片づけました。明日明後日は東京なのですでにノマド気分でした。捗りました。そして、まんだらけグランドカオスに向かいました。ところがスマホのナビがかなり遠方をガイドするので調べたところ移転していることがわかりました。途中、戎橋筋の道具店や日本橋の電気街に寄ったりしてずいぶん歩きました。まんだらけはサブカルチャーの老舗ですが哲学書など人文書の古本が相場より安価に設定されいることが多く、昨日もこれまで手が出なかった本を買い求めることができました。ソール・ライター著『ソール・ライターのすべて』(青幻舎 2017)とサイモン・モリソン著、赤尾雄人監修・訳、加藤裕理訳、斎藤慶子訳『ボリショイ秘史:帝政期から現代までのロシア・バレエ』(白水社 2021)などです。前者は写真が豊富で見応えがあります。後者は帝政ロシアでなぜあのような華麗なバレエが生まれ、ロマノフ王朝末期の社会不安が募る中でチャイコフスキーがなぜあのような美しいバレエ曲を書いたのか、書けたのかという私の疑問に答えてくれそうに思っています。旅先で古本を買い求めたときの悩み、それはどうやって持ち帰るかということです。今回も然り。バックパックで来たので背負って帰ることになります。

高山で山を見る

一昨日から昨日にかけて高山に行っていました。昨年から新型コロナが落ち着いたら富士山とアルプスに登りたいとあれこれ計画してたところ私が右足首を骨折したので山を見るという計画に変更してのことです。新穂高ロープウェイの標高2000m超の西穂高口駅の屋上展望台で同行の山仲間と小一時間山を眺めていました。西穂高岳山頂付近は雲がかかっていましたが続く稜線上のジャンダルムや槍ヶ岳などははっきり見えました。

山に登ることができないのは残念でなりませんがアルプスの山々を目の当たりにするとそれだけで満たされるものがありました。山を見るというのはどういうことなのだろうか。直接山の恵みで生活しているわけではないのに山を身近に感じてじっと見つめてしまいます。頂や稜線、重なる岩、崩れた山肌、等々、様々な様相が山にはあります。山をそうして見ることでを山の姿に重ね、ときに懼れから信仰の対象とするのだろうか。昨日、アルプスの山々を見る私に登頂したいという気持ちはありませんでした。ただただ歩きたいということでした。ロープウェイで見かけた登山客の装いもいいものだと思いました。使い込まれた山道具は美しい。しっかり足を治したいと思いました。

その足ですが、今回は高山市街の散策を含めて長時間歩くのでそれ自体がちょっとしたチャレンジでした。靴はミッドカットのトレッキングシューズを履いて行きました。患部に違和感はあるものの歩くこと自体は負担ではないのですが立ち止まると足が腫れてくるような感覚があって気が気ではありませんでした。スロープや階段は昇りはスムーズですが下りで反対の足を先に下ろす恰好になると足首から甲にかけてつっぱってときに痛みがありました。それもリハビリとあちころ歩き回りました。温泉では足首を持って関節が馴染むようにいろんな方向に曲げました。そして、一日の終わり、ホテルと家に帰って足首を見ると腫れはさほどではなく一晩休ませると左右に大きなちがいがなくほっとしました。そして、やせ我慢ですが、このけがのおかげで学んだことは少なくないと思っています。いずれふり返りたいと思います。