喪失とブラームス

仕事初めの1月4日の帰りに車中のFM放送はラ・ローチャの特集でした。なんと懐かしい名前と思って聴いていたら次の演奏はブラームスのピアノ協奏曲第2番変ロ長調から第3、第4楽章でした。演奏が流れると私は瞬時にその音楽に包まれているのを感じました。重厚なオーケストラに対峙するかのような力強いピアノ、そして、管とバイオリンの切なく美しい旋律がたなびくように何度も奏でられる。私は音楽に包まれているだけでなく心も身体も癒され支えられているのがわかりました。猛烈な勢いでクラシック回帰に向かっているのがわかります。オデッセイでクラシック音楽が聴けるのも後押しとなっています。

大学生の時、図書館で音楽之友社の『音楽史大図鑑』を見つけました。目を引いたのはブラームスやリストの若き日の姿でした。整った目鼻立ちの凛々しさは音楽への情熱を彷彿とさせているように思いました。伸びた髪とひげの年老いた巨匠ではなくあふれる情熱を内に秘めた若者の姿でした。その情熱は女性にも注がれ、ブラームスはクララ・シューマンを恋い慕ったとか。そのエピソードはどこかで知ったのですが図鑑のブラームスの姿を見て腑に落ちるものがありました。

この今になってブラームスに惹かれるのは何故か。年末に届いたやまだようこ著作集第8巻『喪失の語り 生成のライフストーリー』(新曜社 2008)を読んでいるうちに喪失(死別に限らない喪失)が自分にとっても大きな影響を与えているのではないかと考えるようになってきた矢先のラ・ローチャのブラームスでした。この本は喪失と生成がある意味「対」となって描かれていますが、喪失がもたらす抗いがたい負のエネルギーは何も変わらない。喪失の瞬間から生成が始まっているのですが、当人がそれを身をもってわかるには相当な時間とエネルギーが要る。後者は人であったり本であったり、また、旅であったり、そして、音楽などアートも大切な手掛かりとなり後押しとなると考えます。思えばたくさんの喪失があり、それがどこまで整理できていたのか、これからも時間がかかるのか。私にとっては少なくとも音楽と美術、そして、様々なジャンルの本たちが伴走してくれると思っています。

そんなことを考えながらブラームスについて書かれた文章を読みたいと探っていたら新保祐司著『ブラームス・ヴァリエーション』(藤原書店 2023)を見つけました。書影の帯には次のようにあります。

ブラームスを通して歌う“近代への挽歌”
コロナ禍の逼塞の日々に、にわかに耳を打ったヨハネス・ブラームス(1833-97)。
ベートーヴェン以後、近代ヨーロッパが黄昏を迎える19世紀を生きたこの変奏曲の大家の、ほぼ全作品を「一日一曲」聴き続ける。
音楽の主題から、文学・思想・人間・世界・文明へと自在に「変奏」を展開し、現代への批判の視座を見出す、文芸批評の新しいかたち。

今の社会状況の中で、今の人が、今の言葉で綴った本であることに何かしら私が思い巡らす喪失に通底するものがあるのではないかと早速取り寄せることにしました。

喪失を生成へとつなぐ針と糸はどこにどんなふうにあるのだろうか。

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