小林かねよ著『児童の村の思い出』


今や希少本でなかなか入手できなかったこの本、小林かねよ著『児童の村の想い出』(あゆみ出版 1983)がやっと私のところにやってきました。小林かねよは池袋児童の村小学校に開校2年目から閉校までの12年間勤めました。小林かねよのことは浅井幸子著『教師の語りと新教育ー児童の村小学校の1920年代』(東京大学出版会)で知ってぜひ著書を読みたいと思っていました。

この本の学術的な価値は私から述べるまでもありません。私が思いつくまま付箋を付けたところからの引用を交えて少し書きたいと思います。

いきなり晩年の話になりますが、大阪に住んでいた小林かねよが病気療養のため阪和病院から津市の国立三重病院に転院して療養中そこで亡くなったという記述に驚きました。私は国立三重病院併設の病弱特別支援学校に6年間も勤務していたのに大正自由教育を展開したもっとも注目される池袋児童の村小学校の開校2年目から閉校まで勤務して子どもたちと学校を支えた人が最期を迎えていたとは想像もできませんでした。葬儀は津市久居のカソリック教会で執り行われたとか。今、この記事を打っているのはその津市久居のアルプラザです。不思議な縁を思います。

この本には病気の子どものことも出てきます。

病気欠席
病気で休む人が多いようだ。ただ今では、山根君、飯塚君、森田君の三君が、ずっと休んでいる。体の丈夫が一番である。これから梅雨期になると伝染病もポツポツ発生してくる。衛生上の大事なことを、いつも忘れないようにしたいと考える。(昭和二年六月六日)
121p

明治大正昭和と病気の子どもたちは多かったことがわかっています。栄養摂取が十分でなかったこと、衛生状態が良くなかったこと、また、医療も現在のようには進んでいなかったことなどがその背景にあります。当時の学校の先生はこうして心配し、気づかっていたことがよくわかります。

「あの頃の池袋と長崎東町」より
児童の村には、通知表のようなものは無かった。教師が一人一人子供の観察を、個人別のノートに記した。子供が帰ってから、一人一人、今日一日の生活を思い出してつける。この仕事は、かなりの時間がかかった。
 父兄の方々には、時々このノートを見せて学校での生活を知って頂き、父兄の感想なども書いてもらった。父兄の方々とは、こうして連絡をとっていくので、六年の卒業のころは、お互いに何もかも判ってしまって親類のようになってしまう。
147p

昭和31年から通知表をなくして今もないという小学校が長野県にあります。伊那市のその小学校でも先生はノートに日々の記録していてそれは1年で相当な量になっているようです。学期末の懇談会ではきっとたくさんのエピソードとともに保護者に伝えられていることでしょう。

[解説] 立教大学文学部教授 中野 光 より
 和光学園のことについての話が一段落したとき、
 「でもね、私に一人で生きていくことを教えてくれたのは、児童の村だったんですよ」といわれ、カバンの中から一冊の白い表紙の絵本をとり出された。それが本書の内容になったものである。
206p

この「一人」というのは何も家庭をもたないということではない。自分で見て自分で確かめ、自分のことは自分の考えて仕事をしたり日々の生活を送ったりということです。このあたりの表現は難しいのですが、輪郭がしっかりした人とでもいうのでしょうか。前述の伊那市の小学校を訪問したとき、やはり「一人ひとり」ということを感じました。総合学習然り、教科学習においても一人ひとりが自分なりの学習を進めていた光景に驚きました。そうした風土は先生自身がそうでなければ生まれないものと考えます。先生自身が研鑚し自分の学びを続けることが欠かせない。伊那市のその小学校の学校評価表には哲学書を読むことが研修として位置付けられています。池袋児童の村小学校の先生たちもまた大正新教育を牽引した人たちで思想的な側面ですすむべき道を追究し続けました。小林かねよも附属学校を辞めて条件の良くない池袋児童の村小学校の教育に身を投じています。そこで学んだ元児童の証言は門脇厚司著『大正新教育が育てた力-「池袋児童の村小学校」にありありと記されています。何事も自分で考える子どもたちが育っています。

「児童の村を支えた教師たち」より(小林かねよ)
私は一番最後まで長崎村に残り、校舎が他人に買われて、こわされ、材木として運ばれていくのを見、瓦が一枚一枚積まれていくのを、身の細る思いで眺めていた。最後に、皆がよく登って遊んだ椎の木が、父兄の桑本澄氏のテニスコートに運ばれて行くのを見送った。子供たちの思い出をその木の中に秘めて根っこを縄でくるくる丸くまかれて車に積まれた。私は皆の心を代表して椎の木と別れた。影の見えなくなるまで見送る私の心の中で秋風が吹き抜けて行った。
87p

1936年(昭和11年)、池袋児童の村小学校が閉校して校舎も子どもたちに親しまれた椎の木も姿を消す一切を見ていた小林かねよとその地の寂寥感が伝わってきます。わずか12年間で閉校となって教育史等においても必ずしも大きく取り上げられてきたわけではありませんがそこで試みられた「教育」は子どもの育ちのみならず社会のあり方を問うものであったと考えます。

池袋児童の村小学校は教育の世紀社が運営をしていました。同名の雑誌『教育の世紀』は幸運にも復刻版全巻と別巻を入手することができました。野村芳兵衛や小林かねよらの投稿が読めるのが大きな喜びです。

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