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雨上がりのブランコと子どもたち

この4月から大学教員となって附属学校園の支援室に勤務しています。私の部屋は附属小学校と運動場に間にあって子どもたちに囲まれながらの毎日です。臨床哲学者の鷲田清一氏は大阪大学総長だったとき総長室の真下に保育園を設置したと氏の講演で聞きました。大学は子どもたちの声が響いていることが大切だとも。平成20年、小児がん支援の団体が主催する講演会でした。それから14年、時々思い出していた鷲田氏の言葉の真意を身をもって知るところとなっています。

今月はじめの雨上がりの日、附属小学校の運動場はまだ乾いてなくてやわらかく、ブランコの下の掘れたところは泥水が溜まっていました。20分休みに運動場に出た子どもはまばらでした。3年生くらいの男の子がひとり、ブランコの下の水たまりに靴をわざとふれるようにして水しぶきを上げて漕いでいました。それを3人の女の子が前から見ていました。男の子はギャラリーがいるのでサービスしようと思ったのか次第に水たまりに深く靴を入れてさらに大きな水しぶきを上げて勢いをつけて漕ぎだしました。女の子たちは2~3歩下がりましたがまた近づきました。もちろん子どもたちがどんなことをしゃべっていたのか、また、その表情もわかりませんでしたが男の子も女の子たちも夢中になっているようすでした。チャイムが鳴ると男の子は泥水の中に降りて水びたしになった靴を気にしながら歩きだし、女の子たちも何事もなかったかのように校舎に続く階段に向かって走っていきました。

子どもたちの行動のほとんどはおとなが考えるような目的や意味を持ってはいないと思うことがあります。そう身体が動いてしまうのだと思います。それは「自発性」と呼ぶということすら思いつかないほどのものかもしれません。でも、前述のブランコを巡る光景は私の目をくぎ付けにしてしまいました。その行動に意味はないのでしょうか。目的も意味もなく子どもたちは過ごしているのでしょうか。

私の目をくぎ付けにしたのはブランコを中心とした目に見えない糸、伸び縮み自在な糸に互いに結ばれているかのような、でも、決して結ばれてはおらず引力のような何かによってそこに寄せられているような子どもたちの姿でした。子どもたちは一見バラバラで勝手に動いているように見えてどこか絶妙な距離感を保っているようでもあり、きっと、何か合理性のようなものがあるのかもしれない。女の子たちはただびっくりして見ているのかもしれないし男の子が靴をびっしょり濡らしてしまってどうするのだろうと心配しているのかもしれない。男の子はどうしてひとりでブランコに乗っているのだろう。見てくれる子たちがいてちょっといい気分かな。チャイムで終わっていなければいつまでも続き、私もまた見続けたであろう光景でしたが、チャイムが鳴らなかったとしても子どもたちは何ら予感させることなく次に夢中になるものを始めていたことでしょう。例えばちょっと走るとか、それこそ何でもない何かに。

あの日のあの光景の意味を求めることはそれこそあまり意味があるとは思えませんが、その光景が示唆する子どもたちの経験にはおとなが思いもよらない大きな何かがあったのではないかと考えています。それを「学び」や「成長」ましてや「発達」といった言葉で何かがわかったように片づけるのではなく、何度も子どもたちの姿を思い返し、思いを巡らして、言葉を尽くして、現象学でいうところの「経験構造を描き出す」営みに身を置くことの何と地平がひらかれていることかと思います。あまりに壮大で簡単なことではありません。先達たちの考え方に助けを求めることもめずらしくはない。それでもその一部しか言語化できないかもしれない。しかし、保育や教育に携わる先生たちはそのことの大切さをたとえ薄っすらであっても経験として知っている。簡単に答えが出るわけではないけれどもそこに身を置き留まって考え続けることを気づかい、心をくだくことこそ子どもを知るかけがえのない道筋だと考えます。