月別アーカイブ: 2019年11月

映画「オペラ座の怪人」

テレビ放映で久しぶりに全編を観ました。音楽はサントラ盤を持っているので聴いてはいるもののそもそもミュージカルなので映像がないと醍醐味はわからない。映画なので音楽と映像とのシンクロのみならずフォーカス先の移動等々と相俟ってすこぶる面白い。アンドリュー・ロイド・ウェバーの音楽の妙なる綾に誘い込まれると酔ったような心地がする。しかし、今回はストレートに堪能するというよりも怪人に込められたメッセージは何かとしきりに考えてしまいました。それはたぶん心理という言葉では表せない、人が人として存在する根源の意味のようなものなのだろうと思う。怪人をしてこの物語を成らしめさせているものと言えるだろうか。原作を読んでいないのであくまでも2004年制作の映画の中での私の考えでしかないのですが、2004年の公開に向けて原作があり、脚本があり、カメラワークがあり、音楽があり、道具、編集等々がありという中で、この映画として結実した社会状況と経緯も少なからず要因としてあることも含めて考えられるメッセージということです。例えば、終わり近いシーンで怪人が鏡を次々と叩き割るのはなぜかと考える。何を映すために彼は鏡を並べたのだろうか。単に宮殿をイメージした道具としてそれらはそこにあるのだろうか。いや、怪人は自分の顔が醜いことを誰よりも承知している。ときには仮面を着けた顔を鏡に映すことすらよしとしなかったであろう。なぜそうした鏡があるのかというより、感得は鏡を壊すという行為そのもののメッセージを入れたかったのかもしれない。ネットで検索するとそもそも鏡を割る、鏡が割れるということに“迷信が”があるようです。また、仮面そのものが意味することも興味深い。そうしたことを考えていると時間がいくらあっても足りないので映画を観るたびに怪人が伝えようとしているメッセージに思い巡らせながら答えのない時間に身を置く愉しみを味わいたいと思う。

高校の国語の教科書

先日、フリマサイトで『漢詩大系』全24巻を購入しました。古いもので函はヤケやシミがそれなりにあるものの全冊ともグラフィン紙の破れはなく、月報も揃っていました。大切に保管されていた本です。漢詩を広く網羅した全集を買い求めたのは古典の授業で下敷きとなった白氏文集などの原典を確認するためですが漢詩そのものに惹かれているという方が当たっています。漢詩はこれまで読み込んだことがないので新鮮に感じているのかもしれません。いずれにしても『漢詩大系』全24巻が手元にあるのでふと思い立ったときに作品に触れることができるのは幸せなことです。まさに古典の魅力です。

高校の国語の教科書の文学作品ははおとなのためのもので構成されています。国語総合で出会う芥川龍之介の『羅城門』は高校1年生にとって人間の陰の部分を目の当たりにさせられるのではないだろうか。結末は完結ではない。答えがない。もちろん勧善懲悪ではなくすっきりしない。ひたすら不確実性への耐性が試される。横光利一の『蠅』、井伏鱒二の『山椒魚』、夏目漱石の『こころ』も然りだ。そうした文学作品と哲学者が筆者の何割かを占める評論などとで教科書が構成されている。私が大学進学で実家を離れるとき真っ先に荷物に入れたのが高校の現代国語の3冊の教科書でした。人間の詩と真実、明と暗、どうにもならない日々を生きる人たちの血を吐くような苦しさを教科書で知ることは、しかし、思春期の若者を大きく成長させるきっかけとなるにちがいない。言語を通して生きることの苦しさや厳しさ、そして、喜びや豊かさを知るのだ。私は大学4年間に夏目漱石ばかり読んでいました。「漱石の憂鬱」に浸ったことが今の私につながっていると、この年になって実感としてわかるようになってきました。「漱石の憂鬱」は「西田幾多郎の憂鬱」でもあるのだろう。今、私は教育哲学のフィールドでその渦に巻き込まれようとしている。答えは死ぬまでわからない方がいい。

ラカンとの旅

蔵書リストに入力していて本棚から小野功生(監修)『構造主義 (図解雑学)』(2004)を見つけました。私のプロフィールにはしばらく前まで「構成主義」のところは「構造主義」としていました。とくに構造主義を勉強したわけではないのですが、構造主義という言葉でカテゴライズされる中に私が関心を寄せている考え方や人物が多く含まれていることから関心のベクトルとしてそうしていました。きっかけはこの本だったかも知れません。はさんであった書店のレシートの日付は2009年7月23日でした。この年は退職時の病弱特別支援学校に1回目に勤務した2年目です。学校経営の根幹をなす理念等々について文献や情報に広く当たり、様々に思い巡らせていた頃でした。人は現実の状況を目の当たりにして思い悩むとき、そのことについて表現する言葉を持つ持たないは別にしておおよそある方向に思索を向けるのかも知れない。そのある方向とは、実は哲学あるいは哲学的な探究をする人たちがコンテンポラリーの中で思索の対象としているものではないのだろうか。構造主義はポスト構造主義へと移ってきたとされるが人はそうそう簡単に考え方や感じ方を変えるわけではない。それゆえ様々なことについてその来歴を探ることになる。そうした来歴のガイドとしてこの本は面白いと思ったでしょう。おまけに挟んであった1枚の付箋の場所は「ラカン 自分という「他者」」のページでした。7月の塩飽海賊団特別講義のテーマは「今、現象学を通して見えているもの ドゥルーズを通して見えているもの」でしたが松本卓也先生の話でラカンに触れた部分に私のアンテナは強く反応しました。以来、松本先生の著書等ラカン関連の本を何冊か調達して読むことになりました。私はその何分の一すら理解できているわけではありませんが、そこに求めている何かしらがあるのではないかという予感があります。ちょうど10年前、京都でこの本を手にして買い求めていたことは今の私を後押ししてくれているように感じました。この先、ラカンの著書を紐解いていくわけですがゴールが見えない道のりゆえに好奇心も終わりがないことになるでしょう。