月別アーカイブ: 2010年11月

SUPERSTAR CHRISTMAS

コルジリネの寄せ植えを作りたくてポットを調達に行ったホームセンターで、サンタクロースと雪だるまの土に差すオーナメントが目に入って聴きたくなったのは「SUPERSTAR CHRISTMAS」でした。ジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス(War is Over)」から始まるアルバムです。昨年はなぜか1回も聴かなかったように思います。このアルバムを聴く車は静かに滑るように走るのがいい。夜、見慣れた街並が遠いところに来たように見えました。

iPadのiOS4

iPadのOSがバージョンアップしたことを知って昨日は未明からダウンロードを始めたところ、なんと8時間の表示が! しばらくすると表示は9時間となって、まさかと思いましたが、ほんとに8時間かかりました。サイズは551.4MBで、それでもトラブルなくインストールできたことの方がもっと驚きました。このことがあって光回線への切り替えを決めた次第。ただ、肝心のiOS4の新機能の恩恵はさっぱりわからず・・・
夜、緩和ケア病棟の音楽療法の映像を観ていろいろ思うところ、考えるところがありました。音楽療法のセッションでは音楽以外の要素も少なくありませんが、音や音楽そのもののクオリティはやっぱり高くあるべきと思います。音楽そのものにもっと重きをおくべきと考えます。このことはまた・・・

11月の日曜日のポコ・ア・ポコ

11月の日曜日のポコ・ア・ポコは12家族のみなさまに来ていただきました。今日は出足が早くて始まる15分くらい前から広い会場はまるで保育所のようでした。思い余って泣き出す子もいて、いつもとちょっとちがうなと思っていました。セッションも時折そんな場面があって、そうそうと思い出したことがありました。それは小学校の教室の毎日そっくりです。仲良しでも互いの思いがぶつかって、許せないことがあって、時にけんかもしながら成長していくのが子どもです。帰り、車の中で気づいたことがありました。特別支援学校に勤務するようになって知った小学校とのちがいのひとつです。障がいのある子どもたちは指示が通りにくいことから、そのこと、指示が通ることが指導の目標になりがちです。安全上からの必要もありますが、指示が通るという考え方は、子どもはおとなのいうことをよく聞き、思うようになるのがよいとされる方向に流れがちです。でも、実際はちがう。障がいのあるなしにかかわらず子どもはおとなの思うようにならないものです。指導は大事で必要ですが、最終的に自己を育てるのは子ども自身です。昨日の記事にある日本評論社の「こころの科学セレクション」のシリーズで、中根晃編集『自閉症』(1999)に小林重雄氏がこう書いています。「自閉症児が親の指示にも従わず勝手にとびまわる多動の時代をすぎて、指示にもよく従う状態に達すると、担当教員も親も一安心するものである。そのまま自発的行動がまったく消失してしまう状態に進んでしまうことをロボット化と言う。ロボット化は社会的自立を目標にする限り、教育の失敗と言える。しかし、重度の例では施設などで継続的に密度の高いケアが可能であれば、むしろ安全性が高いとも考えられる。しかし、これはインクルージョンの考え方と逆行するものである(小林、1999)。」この部分は初めて読んだときからずっと“ブックマーク”していたところです。障害のあるなしにかかわらず、子どもが育ち成長するということ、おとなになるということは、自己調整ができるようになるということともいえる。この考え方なくしては子どもは育たないと私は思う。過日の全国病弱虚弱教育研究連盟研究協議会(三重大会)で私が参加したオプションセミナーの内容はまさにこの視点がテーマでした。赤ちゃんとお母さんとのやりとりの実験のビデオの中で、お母さんがまったく反応しない場面では赤ちゃんが自分から視線をお母さんからはずして自分の手を見ることがあって、それは「情動調節行為」とのことでした。こうした経験が自己を育てることにつながり、また、一線を越すことで疾患にもつながると考えられます。子どもは決して右肩上がりばかりで育つものではない。ところが、障がいがある子どもの教育ではこの視点が忘れられがちになってしまうことがあるように思います。指示が通ることがゴールのすべてにされがちではないでしょうか。子どもは思うように育たないが子どもは環境に育てられるものと思います。大切なのは子どもの自己調整力を育てる視点です。自己調整力の獲得はポコ・ア・ポコのセッションが目指しているゴールのひとつです。おとながゆとりをもって子どもたちを見つめる空間であってほしいと思っています。

本2題

ジュネーブ国際音楽コンクールのピアノ部門で8年ぶりの1位で優勝した萩原麻未のピアノをニュースで聴いて、これはただごとではないと思いました。ラヴェルもすごかったがシューマンの「子どもの情景」の澄んだ音もなかなか聴けないものでした。曲の解釈というより音楽としてどうあるのかを真っ直ぐな感性で求めるような演奏です。今の若い感性だと思う。某紙の見出しの「リアルのだめ」に膝をポンと打ちたくなりました。ウェットでないところがいい。均整のとれた永く聴ける音楽が奏されることを期待しています。ニュースのインタビューに応える萩原麻未のバックがけっこう田舎のように見えて、あれはジュネーブなのだろうかと思っていました。
辻邦生『西行花伝』(新潮社 1995)が届きました。ハードカバーで手もとに置きたいと思って探していた本です。Amazonのマーケットプレイスではすでにコレクターのカテゴリーでとても手が届くものではありませんでした。届いた本は青森県の古書店からで、インターネットのおかげでこうしたニッチな買い物ができるわけですが、旅先の古書店で見つけるのが絵に描いたような出会いでしょうか。辻邦生は機会があれば少しずつ集めておきたい作家です。
日本評論社の「こころの科学セレクション」は第一線の研究者の文章を集めたシリーズで、ひとつのテーマを多角的な視点から読めるところが内容からもお得感があります。同シリーズの『子どもの精神障害』も然り。内容は精神疾患だけでなく、自閉症や知的障害、不登校、ひきこもり、非行など、思春期を中心として社会的な課題として今後ますます取り組みが求められるテーマが取り上げられています。発行が2002年ということも考慮しながらですが、目の前の事象の深みに入り込みがちな状況を見つめ直す視点を与えてくれる1冊です。メンタルヘルスが国家的な課題になりつつあるように思っています。
今夜はジョン・ルイスの「バッハ プレリュードとフーガ vol.1」を静かに聴く。

不思議な出来事

昨日、吉野まで行って来ました。紅葉狩りというほどのこともなかったのですが、県内のR166沿い(旧飯南郡)の紅葉はとてもきれいでした。吉野に着いたのは午後3時過ぎで、ケーブルで上ってしばらく散策しました。茶店で休んだとき、腕時計を見たら日付が20日になっていて驚きました。それは夏に買ったばかりでそうそう早くこわれてはたまらない。日付を直すときにレトログラードの曜日の表示もおかしくなっていて、針はぐらぐらしていました。慎重に直したものの少なからずショックでした。しばらくしたらまた日付が23日になっていてほとんどあきらめの心境でした。ところが、家に帰って今朝になると、日付や曜日の表示がくるっていないばかりかどことなく確かな印象があるのです。どうして吉野で日付がくるったのか? “パワースポット”の為せる現象なのかと思ってしまいました。私の五感はとくに反応なしでしたが。
玄関先のビオラが元気がなくて植え替えをしました。素焼きのポットに植えたビオラは全部しっかり大きくなっているのでポットの素材も関係しているのかも知れません。ところで、この夏の猛暑で全滅状態だったインパチェンスのポットをそのまま脇に置いて水もやらずにいたのですが、今月に入って濃い緑の葉っぱがびっしり出て花が開き始めていることに気づきました。これはどうしたものかと、今日は、固形肥料を置いてしばらくビオラの代わりに玄関先を任せることにしました。地上部分は枯れていたはずなのになんという生命力か! この夏は暑さと乾燥に強いはずのオレガノ ネオンライトも枯れてしまうほどだったのに、そのとなりの暑さに弱いはずのクリスマスローズはしっかり耐えてこれも驚きました。植物は地植えにすると本性が姿を現すのかも知れません。ワイヤープランツもとんでもなく増えて困りものです。増え過ぎると抜かれてしまうのが狭い庭での宿命です。
植物でちょっとおもしろいのがパンパスグラスです。とにかく大きい。でかい。高さは軽く2mを超える。株もかかえられないくらい。メーンクーンのしっぽみたいな大きい穂が光ってとてもきれいだ。私がパンパスグラスを初めて知ったのは4年前の夏、聖路加病院の隣りの公園でした。その大きさに驚きながらもどこかしら痛快な印象で写真に撮りました。これがその写真です。聖路加病院のマークも入れたくてこのアングルなのでそう大きくは見えませんが大きいのです。
Pampasgras20060820

ジャスミンティーと全病連と『西行花伝』

ここしばらくジャスミンティーばかり飲んでいます。今日はホテルに缶詰の出張なので2本持って行きました。この近辺で手に入るペットボトルのジャスミンティーの種類は限られていて、しかも私のお気に入りの銘柄はなぜか限られた遠くのコンビニしか置いてないのでネットでまとめて注文した次第です。そのジャスミンティーは、先月、高速バスに乗る前に池袋駅東口のコンビニで初めて買いました。一口で私のモードが変わってしまうくらいの驚きがありました。ジャスミンティーはこんなにおいしかったのだろうか。それとも私の感じ方や体質が変わってしまったのだろうか。それがハーブの力なのだろうか。しばらく飲み続けることでしょう。
今日は全国病弱虚弱教育研究連盟研究協議会(三重大会)に出席しました。この会は学校教育系ではめずらしい学会形式で、限られた日程で数多くの報告を知ることができる合理的な運営です。内容は凝縮されていて心地よい緊張感がありました。子どもたちの姿が浮かんでくるような臨場感もありました。ほどよく象徴化された内容は普遍性をもつものです。子どもたちの困難感の真の意味を正しく理解するためのトレーニングをしているかのようでした。夕刻から始まったオプションセミナーの会場はスライドと部屋の明るさを調整するためにカーテンを開けました。レース越しに夕日が見える中で聴く心理学のレクチャーは時間を超えた空間のように思えました。
一昨日、辻邦生著『西行花伝』(新潮文庫 2001)が届きました。700ページを超える文庫本です。1ページ目の冒頭を読みかけて思わず目をそらしました。それはあまりに美しく芯のある言葉。よく知っているはずなのに時として思いがけず心の奥まですっと入って溺れてしまうような感覚におそわれる文体です。私が初めて読んだ辻邦生の著書は『背教者ユリアヌス』(中公文庫)でした。全3巻の第2巻だったか第3巻だったか、発売の日に待ち切れずに昼休みに街中の書店まで買いに走って午後の授業は間に合わなかった。高校3年間で1回の欠課の理由です。しばらくぶりに浸る辻邦生は『西行花伝』です。

「個人」という大きさ

“尖閣映像”の流出が大きな問題となっていますが、その映像がYouTubeにアップされたちょうどその頃、NHK-TV「クローズアップ現代」で「機密告発サイト・ウィキリークスの衝撃」が放送されていました。偶然かも知れませんが、このタイミングもまた単なる偶然とは思えないこの頃の社会状況です。
金子郁容氏のコミュニティ・スクールのウェブサイトが閉じられたようで残念に思っていますが、これは文部科学省でコミュニティ・スクールの「バージョンアップ」を図るための検討会議が始まったこととリンクしているのだろうか。金子郁容氏ももちろん委員です。現制度下のコミュニティ・スクールの指定に係わらず、コミュニティ・スクールの理念はどの学校においても運営の柱のひとつとなる考え方でしょう。「コミュニティ・スクールが地域をつくる!?」という見方も共感するところです。当事者たちがどうしていくかを熟議して価値を生みだす風土の地域をつくっていきたいものだ。
この2題を結ぶキーワードは「個人」だと思います。「クロ現」に登場したWikiLeaksのジュリアン・アサンジ氏と金子郁容氏、もちろん接点はありませんが、松岡正剛氏のウェブサイト「千夜千冊」の「金子郁容『ボランティア』」を読むと「個人」というキーワードが印象づけられて両者を結ぶのです。「個人」という概念は一人の大きさを表す。

デンマーク2題

Annerose101031
昨日から読み始めたのはケンジ・ステファン・スズキ著『なぜ、デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか』(合同出版 2008)です。サブタイトルは「どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれないのか」です。読んでいて、そうかと思い出したのはNHKの「プラネット・ベービーズ」シリーズの「デンマーク ロラン島 北欧 森の中の幼稚園」でした。急いで録画を観ました。本はこれからデンマークの歴史に入るところですが続きは明後日の休日です。私の中で何かが結ばれようとしているように思います。
写真は昨日のアンネのバラです。