月別アーカイブ: 2021年8月

幼児教育事始め

今や風前の灯の教員免許更新制にちょうど当たって30時間の受講が終わりました。この際にと幼児教育を幅広く学びたくて8つの講座がある放送大学を選びました。この点は期待通りで幼児教育の講座はたいへん興味深く面白いものでした。率直にいえば、幼児教育の講座を受けてただならぬ波風が私のなかで立ったというくらいインパクトがありました。

私がとりわけ驚いたのは「夢中」と「没頭」という言葉です。教育・保育の質の確保において「安心感」と「居場所感」、そして「夢中」と「没頭」がキーワードとして資料にありました。ベルギーのリューベン大学のラーバーズ教授が0歳から18歳までの教育の質を決める観点として示しているとのこと。「夢中」と「没頭」は3年前の初任者研修の研究授業の取り組みのなかで矢野智司らの資料を当たって得たキーワードでした。学習活動(広義の学習活動)における「夢中」や「没頭」の重要さは子どもの教育に携わる者なら身をもって知っているものですが学習指導案や授業研究においてこの言葉が前面に置かれることはほとんどなかったのではないかと思っています。定年退職して現象学を学んだことでこうした言葉を使うことの大切さが文字通り身をもってわかった次第。不甲斐なさにため息の一つも出ますが初任者指導などの機会に積極的に問いかけて使っていきたいと思っています。

さて、幼稚園と学校ではそもそもの文脈が異なるように思われるのはどうしてだろうと考えます。学校では子どもは一つひとつのステップを順に踏んで学んでいくものという考え方に基づいて学習指導要領等が記述されています。幼稚園においても「できる」という視点はもちろんありますが、「気づく」ようになるという視点が強調されているのではないかと講習を受けて思いました。保育所や幼稚園の自由遊び等が小1プロブレムに影響しているのではないかと聞いたことがありますが、小学校低学年で設定されている生活科が保幼・小との接続やつながりを想定されているとはいえ幼児教育と小学校教育とのちがいはもっと根底にある教育観や子ども観のちがいにあるのではないのだろうかと思います。幼児教育についてはあまりにも知らなさ過ぎて何がわからないかもうまく言語化できませんが就学前の子どもたちの育ちへの興味は尽きません。

カメラ談義

今週、久しぶりに地元の白米城址に登りました。トレランシューズにデイパック、カメラは手持ちという軽快なスタイルで半分以上写真目的の山行です。そこらじゅうで写真を撮って、つまり、立ち止まって登りはコースタイムの1.5倍の1時間かけて登りました。ゆっくり登ると見えてくるものもちがってきます。あまりにあちこち見てばかりだと脚元に注意が疎かになって足首をひねりそうになります。今回のカメラはミラーレスのCanon EOS M5なので露出補正した画像をそのままファインダーで見ることができてらくちんです。でも、このカメラの特性なのか「葉っぱはこんなふうに」と決められてしまう部分が多いように思えてきました。もちろんきれいに撮れます。実際の見た目よりきれいな画像です。イメージカラーというわけでこれは何もこのカメラに始まったものではなくフィルム時代から追ってきた「美」のかたちです。フィルムの色は自分を表現するための仕掛けであり個性でありました。それぞれのフィルムの「思想」を理解することなくしてデジタル時代の「自分の色」を見極めることは難しいのではないかなと思います。富士フィルムのフィルムシミュレーションは単にシーンによる写し分けではなく心の奥にある「美」をかたちとして見せる仕掛けではないのだろうか。時代とともにこうした色の文化は変わっていくと思いますが富士フィルムには「哲学」を貫いてほしいと思っています。

富士フィルムのデジタルカメラはFinePix4700から日常的に使ってきてポルシェデザインのFinePix480に更新しました。今手元にあるのはX-H1とX-E3の2台です。「色」ということではフィルムシミュレーションの「クラシックネガ」が使えないのがすごく悔しい。「クラシッククローム」はポジフィルムの文脈だと思う。富士フィルムにはファームウェアの更新でがんばってほしいと切に願うところです。

先日インスタにアップした青山高原ウィンドファームの写真はCanon EOS 5Dmarkⅱで撮りました。このカメラは仕事が忙しいときに購入したのであまり使われないままメーカーのサポートが切れてしまったという不遇にあります。ファームウェアのアップデートも最終までいってないのではないかと思います。少し前に調達したタムロンの28-300mm F/3.5-6.3 Di VC PZD A010を使いました。高倍率ズームレンズなのでそこそこの写りと思っていて、そう思う部分もあるのですがフルサイズの解像感を見せつけられたように思いました。2008年11月発売で私が購入したのは2011年だったか。13年も前のモデルです。「今風」には撮れない部分はありますがなんとか使っていきたいカメラです。

こんなカメラ談義をしていると自分にとって唯一無二のカメラは何なのだろうとふと思います。気が多いのでそれが決められないのです。

コロナ下のセッション

昨日は市の社会福祉協議会が主催する障害児の地域スクールでレクレーションを担当することになり、音楽遊びを担当しました。遊びといってもミュージック・ケアのセッションのエッセンスを活かした子どもたちと地域のボランティアのみなさんとの関係性の質の向上を指向する活動です。今回は新型コロナウィルスの感染予防としてシャボン玉とビニール袋、フラップバルーンというミュージック・ケアの三種の神器ともいえる道具を使うことができないのは私にとっては初めてのシチュエーションでした。

ミュージック・ケアは選曲=プログラムの組み立てはもちろんですが音楽の伝え方がセッションの核心となります。シャボン玉などが使えなくてもその核心である鑑賞と動作や言葉がけ(声かけ)を通した音楽の伝え方がしっかりしていれば大丈夫と、それはわかっていながらもいささか緊張してのスタートでした。マスクをしていたので声かけは大きめにはっきりしっかり、視線と動作とのコンビネーションにも気をつけました。ひとりの男の子が走り回ったりしていましたが曲の終わりはピタッと止まるなどセッションの流れに乗っていることがわかって心強い応援のように思いました。最後は新聞紙遊びを入れて一体感のあるなかで終わることができたと思いました。新型コロナウィルスの感染拡大で次のセッションが行えるかどうかわからなくなってきましたが研鑽を積むことを止めてはならないと思いました。

グールド、幾たびか

先日、朝日新聞の「村上春樹さん、クラシックのことを書いてみた」の「第1回 体がずれていく感覚が好き 村上春樹さん語るクラシック」を読んでグールドについて語っているところに目が留まりました。

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グールドは10代の頃にずいぶん聴いて、強い衝撃を受けました。グールドを聴いていると、体がね、知らない間に、ちょっとずつ別の場所にずれていくような……そんな感覚があるんですよね。特に、左手に集中して聴いている時に。そこのところが、好きなんですよ。(村上春樹 朝日新聞 2021/7/31)

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グールドについての記述は少し前に横道誠著『みんな水の中』で読んで自分の体験と重ねていたところでした。同書にはこのように記されています。

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【8】晴れをもたらす文学と芸術
(略)
 意識がしょっちゅう混濁しているために、私は文学と芸術を、自分の精神に明晰さをもたらす手がかりにしてきた。というのも文字と芸術は、混沌とした宇宙に明晰さを与えるものにほかならないからだ。
 たとえば、服部土芳の『三冊子』によって伝えられた松尾芭蕉の遺語、「物の見へたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」[潁原1939:104]を発語してみるとき。あるいは、フランスの詩人、ポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」を、「正確にも正午だけで構成するのは/海だ、海だ、つねに新しく始まる!」[1933:157原語フランス語]と訳出してみるとき――。私の心は、澄んだものへと整頓されてゆく。
 文学以外の芸術にも同じ機能がある。パブロ・カザルスがギコギゴと奏でるバッハの「無伴奏チェロ組曲」を聴き、グレン・グールドがポロロンポロロンと奏でる同じくバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を聴くとき、ハンス・ホルバインの絵画「大使たち」に隠された頭蓋骨を斜めから眺めるとき――。私の心は展翅板の羽のようにきれいに伸展されて、心の疲れが発散されてゆく。
(横道誠『みんな水の中』二水中世界より P50-51)

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グールドが弾くゴールトベルク変奏曲はなぜ“特別”なのだろうか。どのような聴き方にとって“特別”なのだろうか。村上春樹が言う体が「ちょっとずつ別の場所にずれていくような」感覚とはどういうことなのだろうか。「そこのところが、好き」とは…。横道誠はグールドが弾くゴールトベルク変奏曲とパブロ・カザルスが弾く同じくバッハの無伴奏チェロ組曲を並べる。私もカザルスが弾く同組曲は好きです。この両者に何か共通するものがあるのだろうか。

バイクの身体感覚


かつて、マニュアルミッションのアテンザワゴンに乗っていたころはただまっすぐほんの少し走るだけで五感が目覚めたものでした。片道70㎞、往復140㎞の通勤の居眠り運転予防のために乗り換えたアテンザは爽快でした。マニュアルミッションは両手両足のコンビネーションを必要とします。それがたまらない感覚でした。

この日曜日、美杉村の古民家カフェ“葉流乃音”(はるのん)までBandit1250SAで走りました。先月の車検のときタイヤ交換をしたのでその“皮むき”です。久しぶりのバイクもまた五感が目覚める身体感覚がありました。マフラーを純正に戻したことで音の刺激は半減しましたが重量感と振動の少なさはコントローラブルで疲れも軽減されて自分の身体と対話をしているようでした。昨日の走行距離は約85㎞。物足りない距離でしたが天気の急変のため帰路につきました。Banditの魅力をあらためて知ることになった“皮むき”でした。

読書

8月、です。1学期はあっという間に過ぎました。今年度は特別支援学校2校で初任者指導教員と高校古典、大学の集中講義が始まったところです。それぞれにたいへん充実していますが注ぎ込むエネルギーもまたかなりのものです。夏休みに入って+αの仕事と教員免許更新制の講座も始まったので時間が足りない。そうして仕事が忙しくなると遊びたくなります。平衡を保とうとする防衛システムが自分のなかに立ちあがるのがわかります。ところが不思議なことに遊んでいるといろんなアイデアがひらめいてこれはこれはとメモることになります。遊びはもっぱら山行と写真なので私のインスタを見ていると遊んでばかりいると思われるかもしれません。

ここしばらくやたらと本が読みたくなって本棚から思いつくまま手に取ってページをめくって活字を追っています。窮極の過ごし方は読書三昧だろうと思うようになってきました。本を読んで何をどうするというのではなくただただ読み続ける。読書こそ窮極の遊びなのだろうと思います。晴耕雨読とはよく言ったものです。人は本がなくては生きてはいられないのだろう。以下、2016-11-21の記事の再掲です。

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先月泊まった東京のホテルでは朝日新聞が無料サービスでした。その読書欄より(20161023朝日新聞朝刊読書欄「ひもとく 本で「つながる」翻訳家・文芸評論家 鴻巣友季子)

「今年は、『アウシュヴィッツの図書係』(アントニオ・G・イトゥルベ著、小原京子訳、集英社2376円)という翻訳書も出たが、人は極限状態でも、本を読む。言葉と想像力は人間の尊厳と生命力の礎だー 『戦地の図書館』は第2次世界大戦中、米国で発刊された「兵隊文庫」の活動を詳しく伝える。書物の威力を知っていたからこそナチスは1億冊もの本を焚書・発禁とし、米軍はそれを上回る1億2300万冊余の本をペーパーバックにして戦地に送り続けた。日本が贅沢を封じていた頃、米国兵はヘミングウェイやディケンズを読んでいたのかという感慨もさりながら、衝撃的なのは米国の選書方法だ。例えば『They Were Expendable(兵士は使い捨て)』という体験記が真っ先に「必須図書」に選ばれた。日本軍とのフィリピン戦で米兵が駒として消耗される現実を描く作品だ。「自分たちがなんのために戦っているのか知る権利が、兵士にはある」と軍も検閲に抗して主張した。(改行)知り考えることで、意味のない戦いを避け、平和の早い訪れを願う。こんな考えを現在の米国も世界中の国も持っていたなら、「聖戦」という幻のもとに無数の命と人間性が失われることもないだろう。しかもこんな選書は文字に対する信頼がなければできない。文学にふたたび力を、と願わずにもいられない。」

「人は極限状態でも、本を読む」の「極限状態」とは何も戦争や災害時に限ったものではなく、誰もが日常で出会るチュエーションでもあります。つらいとき、苦しいとき、出口が見つからないとき、追い込まれたとき、それはその人の極限状態と言えます。こんなとき、何かを決めたり行動するのではなく、ポーズ(一時停止)のボタンを押して本を開いて読むのです。すると自分を見つめる自分が現れます。自分を周りの状況とともに客観的にみることで大事なものは何かがわかってくるようになって冷静な判断ができるようになります。文学書を開いて活字を追う。写真集もいい。現実の厳しい状況は変わらなくても周囲の雑音に惑わされることなく前に進もうという気持ちになります。忙しいほど本を読みたくなるものだ。