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ですます調という文体

いわゆる博論本で「ですます調」書かれた本があります。他にはちょっとない文体です。「ですます調」だと読みやすい、つまり、理解しやすいかというとそうくことではなく、本、著者が語りかけてくるようで興味深く読みました。かくいう私もこのブログは20年以上「ですます調」を基調に書いています。「ですます調」で書くときと「である調」でかくときと何がちがうのでしょうか。私は単に印象に留まらず内容やときとして文脈が異なることもあり得ると考えています。

先日、ある教育実践の事後研修会の講評と助言を仰せつかって資料を用意することがありました。その過程で自分にしっくりくる体裁として、パワーポイントの資料は「である調」で書き、子どもたちの様子を現象学的に分析した文章資料は「ですます調」で書くことになりました。前者はかちっとした仕上がりで、後者は語りかけ調でソフトタッチですがわかりやすさという点では引用も含めてわかりにくさがありました。でも、文体で書き分けたことは今のところ間違っていなかったのではないかと思っています。「である調」では記述が難しいことが「ですます調」ではなんとか言語化できそうと思って書き綴る感じです。もちろん、現象学的分析においてもそのほとんどが「である調」で記述されているので「ですます調」はごく少数派です。

そんなとき、ハイデッガー著『存在と時間』の翻訳をさらに調べていくと、なんと、「ですます調」で訳されたものがあることがわかりました。岩波文庫の「旧訳」です。先の引用部分はこのように訳されています。

情態性は少しも反省されていないので、むしろ情態性は現存性をばまさに、配慮された「世界」へと無反省に譲り渡し引き渡されているさなかに襲うのです。気分が襲うのです。気分は「外」からくるものでもなく、世界・内・存在の仕方として、この存在そのものから立ち昇ってくるのです。(ハイデガー著、桑木務訳『存在と時間(中)』 岩波文庫 1961)

「ですます調」もさることながら「をば」という言葉に目が点になりました。口語体というのかカジュアル調というのか、この訳を紹介したブログには「講演調」とあり、「ハイデッガーがしゃべるのである」などとありました。桑木務訳は古本しか入手できませんがしばらくその文体に浸っていきたいと思わせる魅力があります。対面で誰かに話しかけているような、対話しているような、でも、ぶつぶつと独り言を言っているようでもあります。