月別アーカイブ: 2006年5月

無題

■ふと思い出して本棚を探るときがあります。昨夜は『翻訳の世界1982年2月号』(日本翻訳家養成センター 1982)でした。特集は「童話 ことばのレッスン 分かりやすさだけでいいのか」です。この特集にある佐野美津男の「ことばがきえる」は初めて読んだときから強いメッセージ性を感じるものでした。この文章のどこが私をしてただならぬ胸騒ぎを覚えしめるのか。どんなときにそうなるのか。
■童話という言葉を童謡に置き換えると、やはり同じことが言えるのではないか。佐野美津男のテーマの横にはこの一文がある。「『いつまでもねんね』と思う親、いつしか自立していく子ども…共生的児童文学を断固として退け、子の成長を促せ。児童文学の真の成熟を!」 私も大人の逃避の対象となるような捏造された子どもの世界は受けつけられない。文学でも音楽でも同じだ。佐野美津男が引用するメルロ=ポンティの講義要録『言葉と自然』(滝浦静雄・木田元訳 みすず書房)では、「対人関係と知性と言語とは、直線状の系列や因果関係に配置されうるものではなく、ある人が生きている渦巻く流れに属しているのである。言語行為とは話上手な母親のことである、とミシュレが言っていた。ところで、言語行為は幼児を、あらゆる物に命名し存在を言葉にするこの母親とのいっそう深い関係に導きもするが、それはまたこの関係をいっそう一般的な秩序へと移調もするのである、つまり、母親こそが幼児に、まずは母親の直接性から遠ざかって行く回路-この回路を通って、幼児は必ずしもその直接性をふたたびみいだすとも限らないのだが-を開いてやるのである」とある。言語行為という単語にはフランス語の読みの「バロール」がルビとしてついている。これを音楽行為と置き換えた時、やはり私は共感する文脈を見いだすのだ。童謡なる音楽も幼児をいっそう一般的な秩序へと移調させる役割を本来担っているはずである。音楽と出会うことで子どもが自分を大切に思い、母親や友だちとの間で音楽を共有することで他者との関係性の築き方を覚える、つまり、一般的な秩序へと移調させていくのである。ただ、そうなればいいのであるが、一歩間違えると、母親なるものとの共生から自立できなくなる。音楽はその力の大きさゆえに音楽を扱う仕事に就く者の責任もまた大きいことを肝に銘じておくことが必須だ。
■若尾裕はカワイの『あんさんぶる』連載の「音楽は生きている」(No.423 2002年3月号「ナポリの音楽療法ヨーロッパ学術大会その2」にこう書いている。「Aという人とBという人との間に音楽が成り立つということは、この二人の間に共有の音楽文化があるということだ。ではAという音楽療法士と、Bという、例えば5才の自閉症児の間ではどうだろうか?やはり、AとBの間には共有の音楽文化が成り立つことを音楽療法の前提にしている。だが、こういった音楽文化については心理学や医学で論じることはまったくできないのである。科学の方法論では、なぜ音楽は存在するのかといった哲学的な問題は扱えないのだ。そこに関わることができるのは、哲学、美学、音楽学などの文系の学問なのである。」教育もそうなのだが、今は数値で評価を求められることが多い。アカンタビリティ(説明責任)を果たすプロセスの中でそうした量的評価も必要となる部分もあるが、音楽療法、教育とも、量的評価傾倒からの揺り戻しが始まっているように私は思えてならない。この流れは歓迎するものの、果たして、「哲学、美学、音楽学などの文系の学問」で語ることができる土台が音楽療法や教育の現場にあるのかどうか、危惧するところだ。いくら価値ある実践を積み重ねていても、そのよさ、価値を伝える言葉をもたないとそのよさも価値も伝わらないことが少なくないし、また、致命的なこともある。
■こうしたことをあれこれ考え、腑に落ちる言葉を探して綴っているのは、発達障害の子どもたちの成長とQOLの保障について考えることがこのところ多いからです。
■上田義彦写真集「at home」(リトルモア 2006)が届きました。B4版と小柄ですが、厚さはなんと3.3cmもあります。柔らかなトーンのモノクロはライカと銀塩フィルムの成せるところで、写し込まれた人の存在のリアリティとでもいうのでしょうか、日常の営みの意味の重みが伝わってきます。この写真集は一押しです。折しもSONYのデジカメ、サイバーショットR1のコマーシャルで“似た”写真を見ました。お母さんの胸に抱かれる赤ちゃんの写真です。レンズはカール・ツァイスです。でも、でも、ちがう。銀塩モノクロフィルムとはちがう。別物です。
■夜、NHK-BSで映画「今そこにある危機」“CLEAR AND PRESENT DANGER”を途中から観ました。主演はハリソン・フォードです。主役が徒党を組まない設定は映画のストーリーの定石ですが、ハリソン・フォードが演ずると格別の感銘があります。私も徒党を組まないことを肝に銘ずる。

音楽学の復権

■4年目の5月のポコ・ア・ポコは13家族のみなさんに来ていただきました。プログラムが進むにつれて曲の終わりの“静”がピタリと決まって見事でした。すごい!
■新沢としひこ作曲「はらぺこあおむしのうた」は絵本の言葉のほとんどそのままが歌になっています。ところどころちょっとない音が交じっていて曲の彩りになっています。この歌は生ピアノで弾く方が歌の表現やアーティキュレーションが生きるとの判断です。歌のピアノ伴奏といえばピアノもソリストの如く奏でるシューマンの歌曲が好きなのでついつい冒険をしたくなります。かつて聴きこんだ音楽が私の文脈になっています。今日、音楽療法の勉強をしているポコ・ア・ポコのスタッフから「自分自身の音楽史」を書いていると聞いたことを思い出します。音楽療法の数は音楽療法士の数だけあるとはよく言われるところです。平均寿命が80歳とはいえ、その長い人生の中で音楽の好みはそうそう変わるものではありません。母語や生活環境、社会背景などさまざまなファクターが影響し合う中で音楽と出会い、自分の音楽観が形作られてくるのでしょうが、ある音楽が自分の人生に大きく影響していると感じている人は少なくありません。これは、音楽そのものについて語られるべきものであり、音楽療法が音楽そのもののパラダイムで語られることの意味の大きさを示しているものと私は考えます。音楽療法においても音楽学の復権を期待しています。

GWの意味

■夜な夜な時間を見つけてしてきた「はらぺこあおむし」の打ち込みは1/3を済ませたばかりです。XGworksを使うのは久しぶり、気合いを入れて打ち込みをするのも久しぶりで、いくつか発見がありました。これまでXGパラメータの再挿入がうまくいかなかったのですが、PCの性能がいいとスムーズに更新できることがわかりました。すると、会場でのリハーサルで環境に合わせて設定を細かく調整することができることになります。そして、曲によって、パラメータを細かく設定することができます。当然できるはずのことをこれまで涙を呑んでいたわけで、俄然、やりがいも出てきます。欲も出る。全曲、パラメータの設定のやり直しです。ただ、Windowsでしか使えないXGworksのこと、ThinkPad535Eの解像度の低い10.4インチでは作業効率があまりに低いのですが、なんとかやりくりするしかありません。
■私のiPodのライブラリーでいちばん多いのはJ.S.Bachです。あれもこれもとiTunesに読み込んでいったのですが、結果的にバッハがいちばん多くなりました。音楽のジャンルではRockが多いかも知れません。あと、「おかあさんといっしょ」は仕事柄かなりあります。あれもこれもとという読み込みが一段落して次に私が選んだのはシューマンのピアノ曲でした。とりわけ仲道郁代の「ロマンティック・メロディ」(BVCC-34011 1999)に聴き入っています。メンデルスゾーン、シューマン、クララ・シューマン、そして、ブラームスとシューベルトの作品が収録されていて、これはただならぬ1枚です。
■ここ何週間か写真家の上田義彦のモノクロが気になっていて、昨夜、ふと思い立ってネットで検索したらそのモノクロが写真集として発売間近だとわかって予約をしました。『上田義彦写真集 at home』(リトルモア 2006)です。Amazonのレビューから…「出版社/著者からの内容紹介 上田義彦、最新写真集!!/13年間の家族の記憶。夢のようで、どこにでもある幸福。/サントリー烏龍茶、伊右衛門、無印良品、資生堂など広告写真を中心に比類ない活躍を続けている上田義彦。モデル・桐島かれんとの結婚から、4人の子供の誕生で家族が6人になるまでの13年間の軌跡が、確かな技術に裏打ちされた繊細な撮影によって記録されています。流れゆく時間の中で二度と見ることの出来ない、小さなほほ笑み中にあるかけがえのない記憶に満ちあふれた本書は、
写真家上田義彦の一つの到達点を示しています。/出産・育児を経てモデル業を再開し、テレビや雑誌での活躍を通じて、多くの女性たちから圧倒的な支持を受けている桐島かれんが、1993年からつけている「十年日記」を抄録。/胸を締めつける、小さなほほえみの数々。写真家は、二度とない大切な時間に魔法をかけ、永遠の中に封じ込めた。」…文字通りとはこのこと、まさにその通りの印象です。私はこの中の数枚しか知りませんが、ライカM型で撮ったモノクロはかけがえのない一瞬の輝きを止めていて私の目は釘付けになりました。プライベートな写真なのでこんなふうに写真集として世に出るとは驚きです。私の写真集のライブラリーとして最も大切な1冊となることと思います。今夜、FUJIFILMのテレビCMで、この写真集に収録されているかも知れない1枚を見つけました。子どもを撮ったスチール写真のスライドショーの最後の1枚で、これはカラーでした。到着が待ち遠しい写真集です。
■今日のNHK「食彩ロマン」は作家角田光代でした。「野菜は彩りだから食べなくていいよ」と親から言われて野菜と食べなくて、肉、肉、肉の食生活! 作家になると小学生のときに決めていたとのこと。26歳のとき書けなくて料理に開眼、料理をしているときは何も考えなくていいとも。あゆみはちがうけど料理大好きな私にはそのことがよくわかります。今夜、カレーと唐揚げをたくさん作ってウィークデーに備えました。キッチンに“椅子”が欲しい! 料理をしているときは何も考えないけどちがう何かを考えています。山を下りるシーシュポスのように…

iPod来る

■昨日は結婚式に行っていました。新郎新婦入場のBGMはエルヴィス・コステロの「She」で戦慄を覚えました。愛をストレートに歌い上げることの力は大きい。本来音楽はこうして聴くものだと思いました。
■そんな昨日の今日、iPodが届きました。iPodの文脈はちがう。アテンザのCDプレーヤーの右チャンネルが長時間聴いていると音が切れるので長距離通勤で音楽を聴ける環境の担保です。私は音楽中毒だとつくづく思います。意識したのは小学生の頃です。iPodでますます深みに入り込みます。でも、発達障害がある子どもたちにとって“音楽こそ命”と思う場面に出会うことは多くあります。音楽療法が担う価値は私たちの想像をはるかに超えて大きいのです。
■iPodも取説を読まずに使っているので???なところがありますが、PowerBookのiTunesとの同期も難なく終わって私のiPodにはすでに2262曲も入っています。これで7.74G、残りの容量は20Gです。足して30GにならないのはそもそもHDDの容量が27Gだから。クラシックなど長時間の曲も入っているので7,500曲も入るとは思えませんがしばらくは大丈夫でしょう。ケースもなく保護シートも貼ってないので表面はすでに小傷がたくさん付いています。黒だと擦り傷が目立ちます。でも、iPodを直接見ることができない、直接ふれることができない使い方では聴く音楽も変わってしまいそうです。私はiPodも“使ってなんぼ”です。もちろん“身に着ける”ためのグッズは必需品ですが…
■今日は玉城町の国束山に登ってきました。山の空気は命の洗濯でもしてくれるかのようで、登山口に立つだけでリフレッシュします。標高413mで40分も登れば山頂です。展望は登山道の1か所しかありませんが、山の魅力はそれだけはないと思いました。地蔵さんや古い道標、頂上近くの古寺跡に真新しい祠が建ててあったり、登山道から水をのがす溝が掘ってあったりと、山を守る人たちの営みを追うのも心が温まります。
■先日、“うたのおねえさん”とコンサートの打ち合わせをしました。「エリック・カール絵本うた」のCDで「はらぺこあおむしのうた」を聴いて私はただごとではなくなりました。この歌の楽譜は『クーヨン』(クレヨンハウス2005.5)にメロディーが掲載されただけで市販されてないとか。それを知って私が燃えない理由はない。早速採譜を済ませました。XGWorksの打ち込みが楽しみな曲です。
■先月の末の夕日が残る中、帰りにスターバックスに寄りました。ここ半年ばかりにタンブラーを2本割ってしまってその調達です。濃いチャコールのスーツに黒のハットをかぶった欧米人と思しき長身の初老の人に続いて店に入りました。470mlの黒のタンブラーにカプチーノを入れてもらって小休止です。若尾裕さんのコラム集を持って行きました。腑に落ちる言葉から窓の外に目をやると、低い雲に澄んだ空気の夕暮れ時、私のアテンザの横に白いカングールが止まるのが見えました。いつしか店の中は満席近くになっていました。人、人、人、目に入った人の文脈に少しばかり想像力を働かせてみました。スターバックスの宣伝をするわけではありませんが、そこに集う人たちは、何というのか、すっきり見えるように思います。ひとりひとりちがって見えます。それは当たり前のことですが、そのことがよりはっきり感じられるように思います。スターバックスに入ると私自身のモードがちがってくるからなのでしょうか。不思議な空間です。