月別アーカイブ: 2020年3月

オンライン最終講義

今日、東京大学教授沼野充義先生の最終講義をYouTubeのライブで視聴しました。質問の時間を含めて2時間はあっという間でした。面白かった。知的好奇心を掻き立てられるとはこういうことかと身をもって経験しました。テーマは「チェーホフとサハリンの美しいニヴフ人――村上春樹、大江健三郎からサンギまで」でした。チェーホフと村上春樹、大江健三郎、そしてサンギを結ぶのは何か。「周縁」「周縁性」「周縁文学」がキーワードでした。地理的にも文学上も周縁の存在であるところの人々と彼らの営みです。社会的にも政治的にも周縁どころか虐げられてきた人々が豊かな文学上の営みをしていたことを知って血が騒ぐ思いがしました。チャットでの「水脈が次々につながっていく感じが沼野さんの講義の醍醐味!」とはまさに言い当て妙と思いました。そして、文学の魅力をあらためて思いました。

今回の最終講義のライブ配信は新型コロナウィルスの影響ですがこれは他人事ではなくなってきました。私の大学の授業は後期ですがオンラインのシステムは大学の指示によるにしてもどんな構成、伝え方がいいのかと情報を集めています。オンラインならかえって双方向のやりとりが増えるのではないかと、そんな気もしています。Twitterでは大学の教員らが情報交換をしていて参考になっています。

本のことなど

昨日は和歌山街道沿いの山間部の道の駅までバイクに乗りました。この先あまり晴天が望めそうにないこともあったのですが来年度の仕事がほぼ固まってきて一段落したこと、そして新型コロナウィルスの感染拡大がこの先見通せないことでやきもきしていたので気分転換をと思ってのことです。果たして、BANDIT 1250SAはいつになく軽快に走ってくれてリフレッシュしました。私の場合、感染予防の3条件を考えると余暇の過ごし方は登山かバイクとなります。考えることは誰もいっしょで学校が臨時休校のときは平日から山はずいぶんにぎわっていました。小学生の孫と健脚のおばあちゃん、楽しそうにお喋りしながら山道を登る女子高生、平日の午後なのに駐車場に入りきれない車が列をつくって路上駐車をするほどでした。先週末に登った鈴鹿の入道ヶ岳の頂上はざっと見て200人くらいの人、人、人で驚きました。

上記の私のやきもきとは、もっとあるはずの情報にアクセスできないことも大きな一因です。テレビやラジオのニュースや報道番組もどこまで事実を伝えているのかと疑いをもって接しています。NHK-BSの海外のテレビ局が制作したニュース番組を見ると国内のマスメディアが伝えるニュアンスとずいぶんちがいます。時間の都合か知らされてないのか。そんなこんなでニュース番組を次から次へと録画すると見る時間がない。そうしたとき新聞はありがたい情報源と思っています。「批判的」な記事はなおさらですがクールに読むようにしています。講読しているのは一紙ですが目に飛び込んでくる記事は多彩です。

一昨日3月25日(水)の朝日新聞夕刊の「read & think 考える」は新型コロナウィルスの「脅威に向き合うために」という見出しで6人の書評家らが関連する本を紹介していました。もちろん感染症を医療から描いた本ではありません。篠田節子『夏の災厄』、澤田瞳子『火定』、皆川博子『疫病船』、小林照幸『検疫官』、川端裕人『エピデミック』、ホーフマンスタール『騎士バッソンピエールの不思議な冒険』(小堀佳一郎訳)です。ノンフィクションは6冊中1冊です。5冊は文学作品です。小説に構成される世界は読者に心を揺さぶるリアリティを突きつける。私はどれも読んだことがありませんがどれもが気になる本です。

ロックダウンが現実味を帯びてきていると伝えられます。WHOがパンデミックを表明する前ですが、NHKの「グレートヒマラヤトレイル 遥かなる天空の道」を観ていてはっとした場面がありました。グレートヒマラヤトレイルの最奥の村タシガオン(2,100m)に着いた撮影隊が村のことをもっと知りたくて長老をたずねたところ、73歳のテンジン・ノルブ・シェルパさんとのやりとりはこのようなものです。「ここで生まれたのですか?」「まだ小さな子どものころに連れてこられました」「下の村で結核がはやってみんな死んでしまったんです」「ある者はこちらの森へ ある者はあちらの森へと放牧に適した場所へと移っていきました」「昔はこのあたり一帯は全部森で家は1軒だけの開墾地でした」 結核から逃れるために下の村を離れたと読めます。下の村では結核のためにみんだ死んでしまったとのこと。そうして病気の感染を断ち切ってきた歴史があるということでしょう。

今日読んだのは小手鞠るい著『空から森が降ってくる』(平凡社 2019)でした。ニューヨーク州ウッドストックの森に終の棲家を見つけた著者は小説を書き、花を愛で、動物たちと過ごし、山に登って暮らしている。2月に訪れた伊那市の小学校の森と森の教室で学ぶ子どもたちを思い出しました。静かで熱い感動を教えてくれる本でした。

松本侑子『みすゞと雅輔』

昨日、松本侑子著『みすゞと雅輔』(新潮社 2017)が届いてパラパラと拾い読みをすると文化史のような気配があって目が吸い込まれるように読み始めていました。私は金子みすゞの詩は有名なものしか知らず、また、自殺したことも初めて知りました。実弟の上山雅輔に至ってはその名前を全く知りませんでした。果たして、近代文学に関心を寄せているので当時の文芸の状況が描かれていることを興味深く読んだ次第です。帯の言葉が本書のそうした記述をよく表していると思います。「大正デモクラシーにめざめ 「赤い鳥」と童謡を愛し 白秋、八十にあこがれ みすゞの詩に、心ふるえる。 昭和モダンの東京 菊池寛の文藝春秋社で 古川ロッパのもと、働く。 みすゞは、自殺 雅輔は、自死遺族に 時代は、昭和の戦争へ。 弟の胸に残る みすゞの瞳の輝き 忘れえぬ青春の日々……」 上山雅輔は「膨大な日記」を残しており、本書は「弟の目を通して描く」とあります。描かれているのは、しかし、金子みすずと上山雅輔、ふたりに近しい人たちだけではありません。日本の近代に生きた人たちの姿が浮かび上がってきているように思いました。著者は本書を「フィクション」と書いていますが限りなく忠実な史実に近いのではないかと思います。少なくない文人たちが戦争を礼賛する作品を世に出したことも史実として淡々と記述されておりそれが金子みすゞの創作に光を当てています。それにしても日本の近代はどいういう時代だったのか。近代は今も続いているのだろうかと考えてしまいます。

カミュ『シーシュポスの神話』

カミュの『ペスト』が売れているとのこと。新型コロナウィルスの感染拡大がその背景にあるらしい。私も再び『ペスト』を紐解くことを考えましたがどこか文脈が異なるように思われて本業に時間を注ぐようにしています。そんな中、ツィッターで毎日新聞書評面「今日の本棚」の記事が目に留まりました。カミュの『シーシュポスの神話』の文字があったからです。「この3冊 向谷地生良・選 不確かな時代を生きる ①シーシュポスの神話(カミュ) ②オープンダイアローグとは何か(斎藤環) ③ネガティブ・ケイパビリティ 答えのない事態に耐える力(帚木蓬生)」です。私は3冊とも読んたことがあってどれもが心に残っています。とりわけ『シーシュポスの神話』は20歳の頃繰り返して読んだ本です。神の怒りをかって巨石を山の頂上に押し上げることを永遠に繰り返すことになりますがいちばんの苦しみは手持ち無沙汰で山を下るときに思考することであったという下りは衝撃的でした。不条理を背負っているゆえに考える時間はよりシーシュポスを更に苦しめたということか。「われ思う、ゆえにわれあり」や「人間は考える葦である」など、人は思考することでその生が満たされると言われてきたのではなかったのかと私は訝しく思ったものでした。答えのないことがたくさんあることを身をもって知り始めていた私はその物語に底知れぬ恐ろしさとともにリアリティを感じていたのだと思います。帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ 答えのない事態に耐える力』は答えならぬ解決のない事態が描かれています。

先週はまた中井久夫著『西洋精神医学背景史』(みすず書房 1999)が届きました。題名のとおりこれは歴史書であると思いました。人間の歴史について書かれた本です。人間のあらゆる営みを描くことで精神医学なるものが浮き彫りされていきます。私にはなかなか理解が難しいところがありますが私の目を捉えて離さない記述もまた随所にあります。NHKのドラマ「心の傷を癒すとは」の主人公は高校の頃から中井久夫の著書に読みふけります。どの本かはわかりませんが『西洋精神医学背景史』と同じ文脈で書かれていることと思います。私がこの本で得るものは知恵ではないのかと、そう思います。

藤原岳と梅園

昨日は昨年11月以来のマスツーリングでいなべ市農業公園梅園に行きました。天気もよく距離は200km弱でしたが夜になってけっこう疲れているこことがわかってきました。そもそも身体を動かす機会が少なくなってきていることの影響を実感しました。でも、疲れたことで久しぶりにぐっすりと眠ることができたように思います。バイクもまたバッテリーがあがってしまわないくらいに乗るだけだったのでバイクの動きや反応が新鮮でした。もっと乗る機会をふやしてていねいに乗ってやりたいと思いました。公園は梅の花もきれいでしたがうっすらと雪が残った山肌に冬枯れの木々が立ち並ぶ藤原岳も壮観かつ繊細で絵画的でした。この季節に藤原岳を北東側から見るのは初めてでした。雪が積もったら登りたいと思っていましたがスケジュールと合わずに持ち越しです。→Instagram

アイキャッチ画像は当日の藤原岳上空の空です。

最後の授業

先週の水曜から木曜にかけて長野県伊那市に行って小学校を訪問していました。その帰路、ステップワゴンのラジオで3月2日からの臨時休校の第一報を知って途端に慌ただしくなりました。翌28日金曜日の授業が最後の授業となったわけです。学年末考査が終わったら教科書の他にも授業で取り上げたい作品をいくつか考えていたのですがいきなりの最後の授業です。私は18歳のとき出会って今もいちばん身近に思っている村松英子の詩「欲しい」を取り上げました。

欲しい

私は欲しい
視界から瞬時に消える
かもめの胸を

私は欲しい
ひきがねにかけられた熱い指を
丹精の薔薇を切る園丁の瞳を
岸壁に傷つく海のわき腹を

身をこがす
激しい愛の魔術が
嘘のように白く解ける一瞬のその清らかな顔を
私は欲しい

ふたたび
私はのぞまない
ただいちど
ひとが出会う
死の刹那
その心を
私は欲しい

村松英子1971『一角獣』より

「丹精の薔薇を切る園丁の瞳を」という一行に目が釘付けになりました。齢80に届かんとする風情の園丁が思い浮かんで見事に咲いた丹精の薔薇を見つめるそのまなざしに高校を出たばかりのとき惹かれたわけで今も同じです。

アイキャッチ画像は先週2月27日木曜日、伊那市から望む仙丈ケ岳にかかる雲の空です。