月別アーカイブ: 2020年6月

個別の指導計画

先月から個別の指導計画について考えることがあって自分なりの考えを一定まとめておきたいと思いました。今では考えられないことですが、20年近く前、個別の指導計画を保護者に見せるか見せないかで大きな議論となったことがありました。私は見せるどころか作成においても保護者の参加は当たり前という立場で論を張りました。そう考えるに至ったのは国立特別支援教育総合研究所(NISE)の研修員だったとき聴いた当時熊本大学助教授の干川隆先生の講義での学びでした。「IEPミーティングが大事。IEPの作成過程の中心は、IEPミーティングです。ミーティングを通じて親と教師は、共に子どもの教育のプログラムに関する決定を行います。IEPミーティングの一つの成果は、IEPの記録です。この成果は、IEPチームによる関与とチームによって到達した結論について書いた記録です。」というミネソタ州のIEP作成マニュアルでとりわけ干川先生が強調されたのは「IEPはミーティングの記録」というところでした。誰かが一方的に作成するのではなく本人・保護者が同席を望んだ近所のおじさんやおばさんもいっしょになって行うミーティングの記録だというのです。これはインパクトがありました。このエピソードはこのブログの2000年5月22日の記事にあります。何と20年も前のことです。そして今もなおここから続く個別の指導計画のあり方は理想の姿として私の中に刻まれています。

セッション再開!

昨日は2か月ぶりのミュージック・ケアのセッションでした。緊急事態宣言解除後の間もない中でしたが思いがけずたくさんのご参加をいただきました。オンラインでは得られない子どもたちと保護者のみなさまの「生」そのものの変容と意味生成があることを私自身身をもって感じ入りました。そのひとときをともにした経験を通してその場にいた誰もが新たな日常の居方を知ったのではないだろうか。大げさな言い方になってしまいましたが忘れられないセッションとなりました。ご参加のみなさまに感謝しています。

FUJIFILMとCanonの“絵”

朝日新聞系列の『アサヒカメラ』が今月発売の7月号をもって休刊することを知りました。発刊は94年前とか。私の年齢をはるかに超える年月を歩んできた紙媒体のカメラ雑誌が休刊するのはやっぱり惜しいものだ。数あるカメラ・写真雑誌でいちばんたくさん購入してきたのも『アサヒカメラ』のはずです。私のカメラ好きは父ゆずり、そして、中学校3年生のときの担任の先生の影響があります。修学旅行の新幹線の中で担任の先生が開いていたのも『アサヒカメラ』でした。最終号の予約はしましたが、その1号前の6月号の特集は「いまこそ、フィルム!」で面白く読みました。フィルムは今も68種類が販売されているとのことです。出荷が終わっているものも含まれますがこの数はデジタルカメラのメーカーが苦心する絵づくりよりも多いのではないでしょうか。かつては目的や状況に応じてフィルムを使い分けていました。今後も今しばらくはそれができそうですが、ここ何回かFUJIFILMのX30を持ち出してフィルムシミュレーションのポテンシャルに驚いています。私のメイン機種はCanonでこれまでも山行にはEOS M3を携行していましたが、電子ビューファインダーを着けたときどこか脆そうで取扱いの気遣いが煩わしい。それで難しいコースの山行のときはX30を持ち出しています。どのカメラを携行しているかが撮れる写真を一定決めてしまいますが、レンズの焦点距離やセンサーの条件は大きいものの見応えというか目を惹きつけるファクターはやっぱり現像エンジン、絵づくりだということに行きつくのではないだろうか。そのなかでフィルムシミュレーションというフィルムメーカーの強みを前面に出しているのはやはりFUJIFILMだと思います。ベルビアの青空や若葉の色は紛れもなく人工的な加工色ですがそれに惹かれ納得してしまうのは人間の脳です。いわゆる記憶色ですね。他のフィルムシミュレーションも含めて、このあたりのノウハウは素人の私が見てもFUJIFILMにアドバンテージがあることがわかります。直近の山行でもその魅力的は絵づくりは大げさですが圧巻だと思っています。ただ、私はCanonでフルサイズのシステムを組んでいるのでシビアな条件のときはやっぱりCanonです。Canonの絵づくりもかなり作り込まれている思っています。色はやや暖色系のパステルカラーか。とにかくずっと見続けても目が疲れない。このことは写真にとってとても大切なファクターではないのだろうか。映像の記録性やメッセージ性といった文化のエッセンスが宿っているように思われる。いつどのカメラを持ち出すか、それは撮りたい写真や荷物の量といったその時々の迷いや勢いで決まってくるのですが「当たり」の確率を上げていきたいものだ。

アイキャッチ画像は昨日の藤原岳山行のときFUJIFILM X30のフィルムシミュレーションをVelviaに設定した「撮って出しjpeg」です。

ピアノソナタ第12番K332

先週末から気合を入れないとなかなか書けない書きものをしていて気分転換にと聴いたモーツァルトのピアノソナタが頭の中をぐるぐる回るようなって1曲をリピートして流しています。ピアノソナタ第12番ヘ長調K332の第1楽章です。これまでも何度か聴いてきたはずなのにこんなにのめり込むことはありませんでした。ネットで調べて見ると森下未知世さんのMozart con graziaのサイトになるほどと思う記述がありました。吉田秀和氏の『モーツァルトを求めて』(白水uブックス)の文章です。

「私をもっとハッとさせるのは、つぎの点である。モーツァルトには、小節縦線を越え、それには左右されないリズムをもつ音楽の進行が出てくることが、必ずしも稀ではない。 別の言い方をすれば、リズムが同じ音楽の中で突然変るのである。 そういう例は、K332 のヘ長調ソナタ第1楽章の展開部に入ってからの箇所にあり、またト短調ピアノ四重奏曲にもある。 」

まさにK332第1楽章「小節縦線を越え、それには左右されないリズムをもつ音楽の進行」のところに惹きつけられたのです。そうなると止まらない。何時間も第1楽章を聴き続けることになりました。そして吉田秀和のとろけるような文にどうしようもなく私もとろけこむ。時間の流れに隙間ができるような感覚か、もうひとつの時間の流れにワープする感覚か、とにかく日常でありながら非日常の透き通った経験をしているような不思議な感覚です。

ところで私が聴いた演奏はイングリート・ヘブラーのピアノです。ヘブラーのモーツァルトは高校のとき出会ってから私の中でモーツァルトのスタンダードとなっています。「近所のお姉さんが弾くモーツァルト」とどこかで読んだことがあります。まさに言い得て妙だと思いましたが楽曲の襞をひとつずつ繰って秘密をのぞき込むようなスリルを感じます。それゆえ何度聴いても新しい何かが顔をのぞかせるのではないのかという期待感のようなものがあります。ヘブラーのモーツァルトはこれからも特別な存在であることと思います。