月別アーカイブ: 2019年9月

『風景の無意識 C.D.フリードリッヒ論』

先日、大阪の某古書店で目に留まった小林敏明著『風景の無意識 C.D.フリードリッヒ論』(作品社 2014)は帯に「フロイトとハイデッガーに共通する核心」とあって思わず買い求めました。私はフロイトもハイデッガーも原著をほとんど読んだことがなくこの本の記述もどこまで理解しているか心もとないのですが同時代を生きたふたりに通じるところを論じるという視点に興味が尽きません。やはり小林敏明著『夏目漱石と西田幾多郎-共鳴する明治の精神』(岩波新書 2017)も然り、昨日届いた小林敏明著『西田幾多郎の憂鬱』(岩波書店 2003)も然り。人は「何もない」ところでこうした営みを行うのではないはずである。社会状況や自分の生活状況、そして、心身の状況もあって人は生成変化する。私の興味関心の焦点はそこにあります。人はなぜそうしたのか、そうするのか、ということです。ハイデッガーも当時のドイツやヨーロッパの社会や文化の中にあって思想を展開している。孤高の人ではない。フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』やサルトルの実存主義の考え方も戦争で疲弊した母国やヨーロッパの状況の中で生まれた。著者は「フロイトとハイデッガーに共通する核心」をもたらしたものが当時のドイツの社会状況にあるとしてフリードリッヒの絵にその本質を探ろうとする。19世紀を神経症の時代、20世紀を統合失調症の時代とする考え方があります。19世紀当時、そして20世紀当時の社会状況と精神病理との関係を考えることは21世紀の社会状況と人間の病を考えるときの大きな示唆となるはずと考えます。

そして、21世紀をどう読み解くか・・・自閉症を切り口とした現在進行形の病理学等の研究に注目しています。今読んでいる本は『〈自閉症学〉のすすめ』(ミネルヴァ書房 2019)と斎藤環著『生き延びるためのラカン』(ちくま文庫)です。前者の「國分功一郎×熊谷晋一郎×松本卓也による鼎談」は活字の間から火花が飛び散っているようでスリリングな快感があります。後者は13年も前の本でありながら今の日本についてリアルタイムで語られているようで驚くのですがジャック・ラカンもまた第二次世界大戦をはさんで生きた人です。この時代については大澤真幸著『社会学史』(講談社現代新書 2019)の序文が面白い。今を見極めるために過去を知ることは明日を描くためにもまた欠かせない。

「ONCE IN A BLUE MOON」

三谷幸喜監督の映画「ステキな金縛り ONCE IN A BLUE MOON」の主題歌です。今更ながらテレビで途中から観て最後に流れて聴き入ってしまいました。エンドロールで曲名を確かめました。「ONCE IN A BLUE MOON」という曲名は英語の慣用句でめったに見られないブルームーンから「めったにない」を意味するとのこと。それはさておきこの歌の魅力は歌と曲とアレンジが超調和的であることだと考えるのです。ベースは曲でしょうか。そして古典的ともいえる音楽性豊かなアレンジに乗って歌詞が乗ると壮大な世界観が現れる。やや大げさな書き方ですがそれこそ今ではめったにない楽曲だと思います。演奏は生オケでそれも懐かしさを超えた世界観を生み出していると思います。きっとピアノで弾いても楽しめます。

「当事者研究の切実さ」

日本心理臨床学会の広報誌『心理臨床の広場』第12巻1号2019の東畑開人さんの巻頭言がSNSで話題になっているのですがなかなか目にする機会がない中、ようやくTwitterでその一部を知ることができました。一部とはいっても切り取る人の慧眼によって核心が浮き彫りになってきます。今回もまさにそれだと思っています。孫引きなので不甲斐なさを感じつつですが引用したいと思います。

「東畑開人さんの巻頭言「当事者研究の切実さ」の切実さ!」(白石正明  こちらのツィートより)
「 当事者研究は過去に流行し、その後沈静化していった諸々の援助法とは全く違います。…そもそも「援助とは何か」という問いの根底を組み替えようとするある種の文化運動なのです。このメンタルヘルスの民主化という政治性こそが当事者研究の核心だと私は思います。…当事者との共同を前提にしてしか専門家が制度に居場所をもちえないという局面を迎えようとしているのです。国家資格となった心理職は、さまざまなステークホルダーとの政治的交渉を重ねていかなければなりませんが、その中で最重要な相手が当事者なのです。そのような流儀は、私たちにとっては未知のものではないか、と私は思います。」(引用ここまで)

先月の塩飽海賊団の特別講義でお聴きした熊谷晋一郎さんの当事者研究の文脈がまざまざとよみがえってきます。専門職といわれる人たちはその当事者研究の理念だけでなく自分自身が当事者研究に「同席」するという相当高度な営みを「流儀」としていかなければならない。当事者研究という言葉で示されている「営み」は障害や病気がある人が当事者であるというシーンを想定してますが、当事者研究の研究が進むことでもっと広い分野で必然的に用いられるのではないか、飛躍しますがそんなこともどこか感じます。

昨日は認知症の人のサポートブックを巡っていろんな立ち位置の人たちと情報交換することがありました。私は特別支援教育における個別の教育支援計画や個別の指導計画の作成における保護者の「参画」で経験したことを基に考えを述べました。本人、当事者の思いや願いをこうした仕組みに記述することは難しいものです。私たちはこれまで経験することがなかったようなフェーズで仕事や地域生活を進める局面に来ているのではないだろうか。

山行の三種の神器

この夏は木曽駒ケ岳や高尾山の登山やバックパックでの遠出などで山行の道具を使う機会があっていろいろ勉強になりました。ザックやウェア、登山靴などは命をあずける道具なので機能第一なのですが私はどうしてもデザインに関心が行って、でも、デザインと機能は相対関係があるところもわかってきてますます楽しい悩みとなっています。そして、自分のスタイルとなってくれそうな山行の道具が絞り込みの段階に入ってきました。登山の三種の神器はザックと靴、そしてレインウェアらしい。

ザックは日常の低山用としてザ・ノースフェイスのボレアリス旧モデルですが冬季に向けて往年のマウンテンダックスのピラー30(30L)に切り替えます。そして小屋泊用としてオスプレーのケストレル38(36L)、テント泊を視野としたミレーのサースフェー60+20です。旅行はミレーのクーラ40(40L)です。他に優れ物もあると思いますがここしばらくはミレーとオスプレーになりそうです。ミレーはフォルムが細長くて荷物を入れても型崩れしないのでとてもスマートに見えます。クーラ40は都会の満員電車でも邪魔になりにくくて取り回しも楽です。ミレーのザックが細長いのはヨーロッパアルプスの険峻なルートを歩くためのデザインだとか。一方のオスプレーはアメリカらしい合理性がほどよく行き渡った機能が生み出す使い勝手がすこぶるいい。しばらくミレーとオスプレーを使って次の選択を考えることになるでしょう。

靴は夏の縦走までのモンベルのツォロミーブーツはハイカット、ミッドカットはキャラバンのC2-02 GTXとメレルのカメレオン、そして旅靴のメレルのモアブミッドの4足です。もっとも頼れるのはツォロミーですがその力を発揮してもらうためには靴紐の締め方にかかっています。この靴をある程度履きこなすことができるようになったら冬山用のハイカットをチョイスすることもできるようになると思って毎回あれこれと試行しています。その点少々アバウトでもそこそこ登れるのはミッドカットのキャラバンです。廃盤時に半額以下だったのでもう1足買ってもよかったかなと思いますが履き方がいい加減になってしまいそうでもあります。機能的にはほどほどで長期間の縦走は難しいかもしれません。ミッドカットのカメレオンとモアブは足入れのときになんの違和感もなかった靴です。カメレオンはウェットで滑りやすいのですが軽快でオールマイティなキャラクターと思います。モアブは旧モデルですがこちらはウェットでも滑りにくいのでカメレオン以上のオールマイティで街歩きから低山登山、里山程度のロングトレイルまで守備範囲は広い。

レインウェアはモンベルのレインダンサーの上下とフレネイパーカです。どちらもゴアテックスで梅雨時でも蒸れないという優れものです。フレネイパーカは雪山用です。

今夜の毎日放送「情熱大陸」は富士山の山岳医 大城和恵さんでした。山の怖さが現実感をともなって伝わってきました。

生きられる物語

NHKの連続テレビ小説「なつぞら」は東大哲学科出身という設定の坂場一久のセリフが面白くてついつい観てしまいます。今朝は『大草原の小さな家』の企画書を会社に提出したときに「生きられる物語」という言葉があってまた注目していまいました。

大沢麻子「原案…『大草原の小さな家』は原作でなくて原案なの?」
坂場一久「この小説はあくまでも原案にしたいと思います。この作品の中へわれわれが生きられる物語をこれから生み出したいと思います。」

そして思い出したのはこちらのツィートとリンク先の記事です。

『中動態の世界』の潜在力を教えてくれる文章。これを読むと「れる/られる」が、〈受け身〉と同時に〈可能〉の助動詞であることの理由もよくわかる。〈可能〉が、自分の「能力」の話になるほうが不思議だぜ。

「助動詞「れる/られる」は、受身と可能、自発、尊敬の4つの意味があるとされますがその意味をひとつに限定することが難しいことが珍しくありません。例えば、7月の授業実践研究の講義で引用した西岡けいこ著『教室の生成のために メルロ=ポンティとワロンに導かれて』の「意味生成の開かれを共にする楽しさ」というフレーズです。先生と子どもがともに過ごす時間と空間においてそこで生成する様々な意味は誰かが意図的に付与するものでも勝手に生まれるものでもない。先生と子どもとの関係において生成する。それゆえ「開かれ」の助動詞「れ」は受身でも自発でも可能でもある。とりわけ生まれる意味の多様さや意外さはすべてが生まれ得るという可能性に含まれる。「生きる」ことは自発でも受身でも可能でもあるはずです。まさに中動態です。このツィートは山田百次さんのこの記事をリンクしています。

こちら「方言で芝居をやること|第7回|中動態としての方言|山田百次」

昨年9月のオープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)のシンポジウムで國分功一郎先生が「意志」について言及されたことを思い出します。白石さんのツィートの最後にある「能力」はしばしば「責任」問題にも繋げられてしまいます。自己責任ということです。私たちはもっともっと不確実性への耐性や寛容を指向したいものだ。

『ワールド・トレイルズ』

昨日『ワールド・トレイルズ』(グラフィック社2019)が届きました。先日大阪の書店で一目で惹きこまれてしまいましたがバッグにスペースがなくて2日遅れて入手することになりました。なぜ一目で虜になったのか!? それは写真の色調や構図、視点等々が新鮮であり同時に懐かしかったからです。欧米、とりわけアメリカの往年の雑誌の写真はコダクロームのややくすんだ深い色調で私が写真に興味を持ち始めた頃はまさにコダクローム全盛期でした。その色はデジタルの時代になっても絵作りとして受け継がれているように思います。新鮮というのは頂上を目指す登山よりも山を歩くというトレイルの視点で作られていることにあります。山の懐に身をおくという感覚です。頂上を目指す視点と山を巡る視点とでは撮る写真の視点もまた異なるのではないか。私もいつかイギリスや北欧のトレイルを歩きたいと思っています