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「である調」と「ですます調」

先週、研究の構想を「である調」から「ですます調」に書き換えることがありました。研究への協力の依頼文書に添付するものです。先方は研究職ではなさそうと思われることからやわらかな文体の方が相応しいのではないかとの判断です。そして、書き換えようとしたとき、単に文末を換えるだけではなく文中の副詞や言い回し、言葉そのものまで換えることになって興味深い作業となりました。

いわゆる博論本で「ですます調」書かれた本があります。他にはちょっとない文体です。「ですます調」だと読みやすい、つまり、理解しやすいかというとそういうことではなく、本、著者が語りかけてくるようで興味深く読みました。かくいう私もこのブログは20年以上「ですます調」を基調に書いています。「ですます調」で書くときと「である調」でかくときと何がちがうのでしょうか。私は単に印象に留まらず内容やときとして文脈が異なることもあり得ると考えています。

今年1月末にある教育実践の事後研修会の講評と助言を仰せつかって資料を用意することがありました。その過程で自分にしっくりくる体裁として、パワーポイントの資料は「である調」で書き、子どもたちの様子を現象学的に考察した文章資料は「ですます調」で書くことになりました。前者はかちっとした仕上がりで、後者は語りかけ調でソフトタッチですがわかりやすさという点では引用も含めて必ずしもそうではなかったと思っています。でも、文体で書き分けたことは今のところ間違っていなかったと思っています。「である調」では記述が難しいことが「ですます調」ではなんとか言語化できそうと思って書き綴る感じです。もちろん、現象学的分析においてもそのほとんどが「である調」で記述されているので「ですます調」はごく少数派です。

以下、関連した話題でこちらを一部書き直しての再掲です。

ハイデッガー著『存在と時間』の複数の翻訳の中には「ですます調」で訳されたものがあります。岩波文庫の「旧訳」です。「気分」についてのところは次のように訳されています。

情態性は少しも反省されていないので、むしろ情態性は現存性をばまさに、配慮された「世界」へと無反省に譲り渡し引き渡されているさなかに襲うのです。気分が襲うのです。気分は「外」からくるものでもなく、世界・内・存在の仕方として、この存在そのものから立ち昇ってくるのです。(ハイデガー著、桑木務訳『存在と時間(中)』 岩波文庫 1961)

「ですます調」もさることながら「をば」という言葉に目が点になりました。口語体というのかカジュアル調というのか、この訳を紹介したブログには「講演調」とあり、「ハイデッガーがしゃべるのである」などとありました。桑木務訳は古本しか入手できませんがしばらくその文体に浸っていきたいと思わせる魅力があります。対面で誰かに話しかけているような、対話しているような、でも、ぶつぶつと独り言を言っているようでもあります。

他の訳も見てみます。

情態性は反省されていないどころか、配慮的に気づかわれる「世界」に無反省に身をまかせ、没頭しているときにかぎって現存在を襲う。気分とは襲うものなのだ。気分は「外部」からくるものでも「内部」からくるものでもない。世界の内に存在する様式として、世界内存在そのものから立ちのぼってくる。(ハイデガー著、熊野純彦訳『存在と時間(二)』 岩波文庫)

情状性は、配慮的に気遣われた「世界」に無反省に身をまかせ引き渡されているときにこそ、現存在を襲う。気分は襲うのである。気分は、「外」から来るのでもなければ、「内」から来るのでもなく、世界内存在という在り方として、世界内存在自身からきざしてくる。(ハイデガー著、原佑責任編集『存在と時間』 中央公論社 世界の名著74 1980)

心境はことさら反省的なものであるどころか、それはむしろ、配慮された世界へ「無反省」にかかりきっているときにこそ、にわかに現存在を襲ってくる。しかり、気分は襲ってくるものである。それは「外部」から来るものでも「内面」からくるものでもなく、世界=内=存在のありさまとして、世界=内=存在そのものから立ちこめてくる。(ハイデッガー著、細谷貞雄訳『存在と時間』 ちくま学芸文庫 1963理想社版 ハイデッガー選書16巻基)

では原語はどうなっているのか。ドイツ語をドイツ語として読まなかったらハイデッガーの真意はわからないのではないでしょうか。