月別アーカイブ: 2009年3月

「植物状態からの帰還」

昨夜NHK-TVで放送されたNHKスペシャル「私の声が聞こえますか〜植物状態からの帰還〜」はたくさんの示唆に富んだ内容でした。人間の回復力のすごさを目の当たりにして、特別支援教育の日々の教育活動の意義、そして、「植物状態」「意識」「目が覚める」など、その人の状態を表す言葉の文脈を考えさせられました。脳はそれぞれの部位がときには補い合い、神経細胞は適切な刺激で可塑性が発揮されることは間違いないでしょう。そして、それは番組にあった電気信号だけでなく、日々の人と人とのかかわりがあってこそ発揮される生命の力だと思います。また、音楽や音の働きも注目させられました。BGMはトランペットがきれいでした。美しい物語でした。
新聞の折り込み広告で市内のスポーツクラブの会員募集のチラシを見つけました。そこは屋内にランニングコースがあることを思い出して来月から入会しようと思い立ちました。これまで2か所のスポーツクラブに通っていたのですがトレッドミルは時間制限や順番待ちで思うように使えませんでした。フィットネスの基本はランニングと思っているので気候に影響されない安全なランニングコースはありがたい。走っていると不思議なことに頭はフル回転したくなるようです。感情は理性をコントロールすると聞いたことがありますが感情というより情緒でしょうか。情緒は身体と密接に結びついています。身体にも考えさせようではないか。

宇気郷 山里のひなまつり

どうしてこの時この場所でこの人と出会うのだろうと、奇遇という言葉ではすまされないような出会いがあることがあります。今日もそうでした。「宇気郷 山里のひなまつり」でのことでした。響き合う、そんな感じでした。何を成すべきなのか、志のベクトルが時の流れの先で交わるのがわかりました。出会うべき人たちの出会いなのでしょう。4人の野郎の出会いのキーワードは、さて、私が思うところ、「風」でしょうか。
その「宇気郷 山里のひなまつり」では民家の玄関や縁側、窓辺に雛人形と昔の生活道具などが並べられて訪れる人を迎えています。ある家では開け放たれた窓から雛人形が顔をのぞかせ、ある家ではぜんざいを作って訪れる人を待ち、またある家では「ごめんください」と引き戸を開けると一人暮らしのおばあさんが出迎えてくれて雛人形から話が始まります。そうと気をつけていないと見落としてしまいそうなくらいの半紙の案内。静かな静かな山里の雛祭りです。今年度の「山村力(やまぢから)コンクール」で全国山村振興連盟会長賞を受賞しました。ひなまつりの案内はこちら、活動内容はこちらです。
先日、オレガノネオンライトが届きました。今日は「宇気郷 山里のひなまつり」の帰りに木と花の苗、そして、ダリアの球根を買ってきました。ダリアは私が小さな頃父が庭で育てていたような記憶があるものの花の姿は思い浮かばず、自分で植えるのは初めてです。育てやすそうで、つまり「放置」しても咲くようなので私にも大丈夫でしょう。売り場ではダリアの球根の反対側にブルームーンのバラの苗があって一思案しました。ポットに差してあった札に花の写真があってそうとわかったまで。ブルームーンは鮮やかな青ではなくて青ざめた青です。今日は一思案したものの明日は買いに行きましょうか。バラ作りは難しい。

久しぶりのガーデニング

花粉症もやっと一段落して庭の手入れを始めたもののすぐに疲れてしまい、一部の草取りと苗植えをしただけで終わりました。今、庭は背丈の低い草が新しい葉を一斉に開いたところで、雑草とはいえ春のやわらかな緑がきれいです。それならと、苗を植える場所だけピンポイントで草を取るだけにしました。これこそ「放置カルチャー」=horticultureか。今日は、ヒューケラ、グレコマ、クリスマスローズ、オキザリス、タスマニアビオラなどに加えて虫除けにマリーゴールドを植えました。昨年の夏にファンネルが虫に食べ尽くされることがあったのでそのすぐ横に植えました。どれほどの効果があるのか興味津々です。アンネのバラも新芽が日に日に成長しています。冬の間もちゃっかりと大きくなったのはパンジーとビオラ、そして、ワイヤープランツとシュガーバインです。この夏はちょっとちがう庭にしたいと作戦を練っています。なかなか手に入らないのはオレガノ・ネオンライトです。昨年の秋、無相荘に行ったときに小田急新宿線の鶴川駅前の小さな園芸店で見かけてからずっと探しているのですがこの近辺では取り扱っていないのだろうか。ネットショップでも取り扱いはごくわずかのようで、今日、やっと注文したばかりです。
久しぶりにデイヴ・グルーシンを聴きました。彼の音楽を聴き始めたのは20年以上も前のこと。リズムの切れが気持ちいい。パーカッションの音がきれいだ。彼のピアノの絶妙なタッチが最高だ。懐かしい70年代の音楽。今も新しい。リー・リトナーとのセッションはなんだか得をしたような気分です。

映画「ワルキューレ」

映画「ワルキューレ」を観ました。封切り初日に観ようと思ったのは昨日のNHK-TVのニュースでこの映画のことを知ったからでした。2時間、文字通り緊張の連続でした。ドイツを舞台にドイツの史実をハリウッドが英語で描くという成り立ちのミスマッチが時々顔を出してはいたものの、映画そのものは密度の濃さという点で出色の出来と思いました。ストーリーを述べることよりも、ここではやはり音楽について触れたいのが私のこだわりです。「ワルキューレ」のサントラ盤はおそらく販売網に乗らないでしょう。印象に残る音楽はありませんでした。では、だからといって、音楽の評価が低いかというと、私はこの映画での音楽の役割はいわゆる劇伴とは趣を異にするものとのとらえでいます。映画の最後の字幕で「SOUND DESIGNER」とあったのは「効果音担当」という意味だったのでしょうが、私には、音と音楽が映像の一部のように思えました。それは劇伴とか効果音という範疇を超えて脚本の一部であるかのように思えたのです。この映画で音楽が最大の音量になったのは10分も続くエンディングの字幕の終わり近くでした。それまで音楽は、音楽としてはただただ控えめに徹していました。シュタウフェンベルク大佐が描く「戦後」の祖国のあるべき姿への道のりの遠さを表しているかのようでした。このことに気づいたのはエンディングの字幕を10分近く見つめたときでした。こんな劇伴もあるのだと、今日は大きな発見がありました。
今日のランチはオイルサーディンのパスタを作ってみました。オイルサーディンは市販のもの、国産を使いました。店にこれしか置いてなかったこともありますが、日本の食卓文化の延長線上の味付けはやはり安心です。天鷹唐辛子は七味で代用したもののネギをたっぷり使ってなかなかの美味でした。それこそ味を占めたとばかり、しばらく作り続けてしまいそうでもあります。

シェリングのバッハ

先日、ふと思い出したことがあってヘンリク・シェリングのバッハを久しぶりに聴きました。無伴奏ソナタ&パルティータ、1955年録音のCBSソニー盤です。シェリングが奏する同曲は1967年録音のグラモフォン盤との2つがあって、グールドが弾くバッハ「ゴールドベルク変奏曲」の2回の録音と似た特徴があって興味深い。67年盤をネットで試聴すると聴けば聴くほどに聴き込んでしまい、このほど67年のグラモフォン盤の輸入盤を購入しました。私がこの演奏を知ったのは大学生のときで、この曲に限らずヴァイオリンの音のスタンダードとして私に刷り込みをしてしまった演奏です。55年盤はシェリング37歳、67年盤は49歳のときの録音で、67年盤を「円熟」と評する向きも多いのですが、私には「闊達」という言葉の方が似つかわしく思います。録音も素晴らしくて音の輝きと芯のある透明感がたまらない。翼のあるバッハです。バッハもきっとこんな演奏を望んでいるにちがいありません。学生オーケストラの先輩で若くして大阪フィルのサブ・コンサートマスターに就任したヴァイオリニストがシェリングのバッハを「哲学が合っている」と語っていました。そういう彼はパガニーニの名手です。自在に奏でる彼のパガニーニもまたシェリングのバッハと同じ文脈、「哲学が合っている」のだと思います。
シェリングの67年盤と同じドイツ・グラモフォンのシリーズでディートリッヒ・フィッシャーディースカウが歌うシューマンの歌曲集を見つけて、送料が無料になることもあっていっしょに購入しました。「詩人の恋」などフィッシャーディースカウが歌うシューマンはやはり学生の頃、出始めた輸入盤を買って聴いていました。これもただただ懐かしい演奏です。
ドラマ「白州次郎」は煙草を吸うシーンが多い。ほんとに多い。放送時間の半分以上は誰かが煙草を吸っているのではないかと思うくらい多い。GHQも然り。そんなテレビの画面は見ているだけで息苦しくなります。しかし、次郎も正子も煙草を吸っていたのに長生きをしました。小林秀雄もそうでした。喫煙率が下がっているのに肺がんは年々増加しているのはなぜか。空気のきれいな地方で煙草の煙とはおよそ縁のない暮らしの女性にも肺がんが増えているようで、胸腔鏡手術の映像でニコチンの沈着が肺の外側からはっきりわかるところを見ているだけに現代社会の知られざる部分の怖さを考えてしまいます。

河上徹太郎のベートーヴェン

NHKのドラマ「白州次郎」第2回に河上徹太郎が登場します。東京の空襲で焼けだされた河上徹太郎が鶴川の白州邸に居候しているとき、彼がおもちゃのピアノでベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章のラスト2小節から第3楽章の冒頭を弾いて白州次郎の家族が聴き入るシーンがあります。こういうシーンに私はめっぽう弱い。至高の芸術は何が大切なのかを教えてくれる。太平洋戦争末期、おもちゃのピアノのベートーヴェンに農作業の手を止めて聴き入る白州次郎と正子、大根を洗う子どもたちの笑顔はひとときの輝きと戦争の愚かさを同時に表しているように思います。逆境のときふれる至高の芸術は何ものにも換え難い支えだ。白州邸の縁側に寝そべって「ピアノが弾きてえ」と右手の指を腹の上で鍵盤をなぞるように動かすシーンも「わかるわかる」とうなずいてしまいました。これこそフィクションだと思いますが許そうというものです。ただ、河上徹太郎がピアノ弾きであったことだけは事実と思いたい。
このドラマは映像も音楽もすごくおもしろい。映像は銀塩フィルムを思わせるちょっと偏りのある色調で、数少なく挿入されるモノクロのスチールも心憎いばかりの効果を出しています。音楽はいろんなジャンルのエッセンスがさり気なく入っています。次郎と正子のきわどいやりとりのバックのタンゴ調がちょっとコミカルでいい。こうなると史実は半分くらいどうでもよくなって、今、このときの自分とドラマとの接点が私にとって大切だと思えます。「篤姫」もそうでした。
私が持っているベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」のCDはクリストフ・エッシェンバッハのピアノ、小沢征爾&ボストン交響楽団の演奏で、録音は1973年です。録音年代のわりに音質はいまひとつですが音楽の醍醐味はよく伝わります。
この曲で忘れられないのは市民オーケストラの練習での出来事です。ピアニストが冒頭のカデンツ風のパッセージに続くEフラットの和音をフォルテッシモで鳴らしたとき、そのピアノの調律のずれが目に見えるほどの鮮明さでわかったのです。それは唖然とするほどで、私はプロのピアニストの技量に驚くばかりでした。「皇帝」を聴くたびに思い出す出来事です。

卒業式の歌

昨夜来の雨も上がり、一時的な冬型が凛とした空気を運んできてとても清々しい朝を迎えました。勤務先の特別支援学校で卒業式がありました。学校の主人公はなんといっても子どもたちです。卒業生の言葉、在校生の言葉、それぞれに心を打つものがあって感動のセレモニーとなりました。特別支援学校で学び、過ごした日々を心の支えにして、そして、誇りにして、新しい環境で自分らしくあゆみを重ねていってほしいと祈るばかりです。
少人数ながら式歌は温かく豊かで素敵な合唱でした。「ビリーブ」と「旅立ちの日に」は式のクライマックスで見事なものでした。私も主旋律や副旋律、ときには即興でハーモニーをつけて思いっきり歌って卒業生への贈り物としました。今日の歌は卒業生にも在校生にも、そして、保護者、来賓、職員の誰にとっても心にしっかり残ることでしょう。学校教育のひとつのあるべき姿だと思いました。特別支援教育はどの子どもにも必要なケアの必要性を理念としています。このことは、ときには言葉では伝わらないかも知れません。ときには歌でそのメッセージが伝わることもあります。大きな感動をありがとう、今日、私は心の中でそう繰り返していました。

3月の日曜日のポコ・ア・ポコ

3月の日曜日のポコ・ア・ポコは12家族のみなさんに来ていただきました。今日は春間近ということか、いつになく活発な雰囲気で、メリハリをつけたセッションとさせていただきました。最後の大きなシャボン玉を見つめる集中力もぐっと力強いものでした。動と静がダイナミックにつながっていました。初めてのご参加の親御さんもポコ・ア・ポコの文脈をご理解いただいて感謝しています。次は4月12日(日)、新学期早々です。たった1か月でも春のひと月は子どもを大きく成長させます。楽しみです。今日はピンクの服を着たお子さんが多くて春の訪れの近いことを思いました。

小児がんの子どものケア

がんの子供を守る会の催しに出席しました。今回のテーマは復学で、地元の学校に戻ってからの日々の保護者の語りから、教育に携わる者の為すべきことの多さと重さを強く感じました。子どもはいつもみんな明るく元気にいるわけではない。しんどいときは何も気にしないでしんどいままいられる場も必要だ。一日のかなりの時間を過ごす学校も同じです。そして、いいときもそうでないときもほどよい距離感をもっていてくれるよき理解者が欠かせない。難しいことだけになおさら努力を続けないといけない。今日はたくさんの人が集い、たくさんの言葉が交わされ、私は為すべきことを今一度整理し直す必要があることを思いました。帰りに書店に寄って細谷亮太・真部淳著『小児がん チーム医療とトータル・ケア』(中公新書 2008)を買い求めました。小児がんのケアを構造的にまとめてあって学び直しです。
先週、アイトワを訪れたとき、カフェではパンフルートの演奏が流れていました。先月は能楽囃子で能管を聴きました。パンフルートからは西風を思い、能管からは周囲の空気感を思いました。能管のインパクトは私には相当なものでした。調べると能管は1本1本“ピッチ”がちがい、また、息を操作して“オクターヴ”高い音を出そうとしても出せないのだとか。西洋音楽からするとそんなに規則性のない楽器は楽器ではない。では、どうしてこんなにもインパクトがある演奏となるのであろうか。能楽囃子は「現代音楽」を数百年前に奏でていたわけで、私の興味は尽きない。

コーズリボン・プロジェクト

「小児がんゴールドリボン」etc. そうか、そうだったのかと膝をポンと打ちたくなりました。ピンクリボンは知っていたものの、そして、ゴールドリボンとパズルリボンも知っていたものの、コーズリボンという組織的な支援の仕組みがあるとわかったのはついこのほどでした。そして、ゴールドとパズルのピンバッジが届いて、その実物を見て、誰かに伝えたい気持ちになりました。この発想はほんとに素敵だと思います。ピンバッジは卒業式などのセレモニーで身につけたいし、ちょっと目立つマグネットやシールは車などに使いたいと思っています。
そう、poco a pocoのスカイブルーにイエローのロゴも発想の原点は同じです。メッセージをデザインで伝えるということです。poco a pocoのロゴはコミュニケーション・シンボルとしても使っていただけることも想定しています。「ポコちゃん、楽しかったね」「ポコちゃん、また行こうね」そんなやりとりが冷蔵庫などに貼ったご案内はがきでしていただけたら、ほんと、うれしいのです。