月別アーカイブ: 2009年5月

とても早く過ぎた1週間のしめくくりは地元の特別支援学校の草刈りでした。いつも遊具の間のタンポポの花は刈らずに残しておきたいのですが作業をしているのは私ひとりではありません。タンポポの花を見つけた子どもはきっとうれしくなって友だちや先生に伝えることと思います。ひととき作業をしたら力を使い果たしたようで、後半は遊具の間の石を拾っていました。終わった頃に雨が落ちてきました。
先週の日曜日に日々草を鉢植えにして玄関前に置きました。白が4鉢と赤が6鉢で、赤は深いピンクです。雨の日は日々草の葉の濃い緑が彩度を落として深みを増します。山々の緑もいつしか深い緑色となってきました。そんな緑に包まれた道を車で走ると宮川流域の湿気を多く含んだ大気の濃さを思い出します。梅雨は生活上の影響が少なくありませんがそのシーンのいくつかは嫌いではありません。とりわけ深い緑は静かで抗し難い自然の力の存在を感じます。日本の八百万の神の思想はこの頃の深い緑の中から生まれてきたのでしょうか。雨の日に深く息をすると自分の身体と自然とが溶け合うような不思議な感覚を覚えます。
村上春樹の新刊がニュース番組で紹介されていました。『1Q84』(新潮社)です。内容がほとんど知らされていないので期待も大きいとのこと。私は急いで入手する理由もないので、つまり読む時間もないので見送ったもののやはり気になって書店に寄りましたが地方都市の書店には回ってこないのか1冊もありませんでした。自宅の本棚の奥にある文庫本の『ノルウェイの森』は1991年の発行でした。また読むこともあるのだろうかと思う。気になる作家ではあります。率直なところ「喪失感」とトライアスロンは私にとってミスマッチです。身体を鍛えると文体が変わるか、そんな見出しで彼を特集する雑誌がありました。雑誌の彼の写真は上半身裸で、引き締まった身体に筋肉の形がほどよく出ていました。酒、女、貧乏というかつての作家につきまとうイメージとは大きくちがう。煙草も。だからこそ気になる作家です。

音階

この春、自宅の近くに楽器店ができました。暖かいクリーム色の店です。自宅近くに楽器店ができるとわかってからその横を通るたびにうれしく思うようになってきました。楽器店はやはり地域の文化のポイントです。私はそうそう利用するわけではありませんが、郊外に住む子どもたちが音楽教室に通いやすくなることは大事なことだと思います。しかもその楽器店では音楽療法のセッションも行っているのです。地方都市で音楽療法が営業的に継続して成り立つこともまたとても大事なことだ。本を買ったら開店記念のタオルを付けてくれました。
今日はその楽器店に初めて行きました。エレキベースの本も何冊か揃っていて選びがいがありました。買ったのは藤井浩著『ベーシストのための音楽理論』(ドレミ楽譜出版社 2005)です。書名に違わず音楽を構造的に説明しているところが頼もしい。あと、何冊か見ていてこれかと思った本がありました。モーツァルトの「トルコ行進曲」をエレキベースで演奏する動画をYouTubeで見て驚いたことがあって、その楽譜と思しき本、『ベース・マガジン 地獄のメカニカル・トレーニング・フレーズ 破壊と再生のクラシック名曲編』(リットーミュージック)です。何もクラシックでなくてもと思いますが、されどクラシックというところがおもしろい。こんな本も…『ベース・ハノン ベーシストのためのフィンガリング・トレーニング』(シンコーミュージック) ここまでくるとクラシックピアノの練習フローのスタンダードと同じです。機械的な練習ははじめのうちはおもしろくないものですがいつしか夢中になってしまいます。文字通り自分自身と語り合っているような感覚になります。
往年の名ヴァイオリニスト、ジャック・ティボーの『ヴァイオリンは語る』(栗津則雄訳 白水ブックス 1992)に相通じるエピソードがあります。パリ、ヴァリエテ座のオーケストラ・ボックスでセカンドヴァイオリンを弾いていた若きジャック・ティボーが女優エーヴ・ラヴァリエールの楽屋を訪ねたときのことです。
「・・・彼女の黒い瞳には、森のおくの池の面をかすめる落日の光のような奇妙な金属質の光が、ぎらりと走った。途切れ途切れにものを言い、ときおり、妙な抑揚をつけた。どこから見ても、この女性のなかには、病み疲れて回復を求めている魂があるようだった。彼女の生の骨組みがすっかりもろくなっていて、彼女の辛い将来が、すでにそこにはうかがわれるようだった。そればかりか、彼女自身、それをのぞんでいるようにさえ思われた。きっと、昼間、何か辛いことがあったのだろう。彼女の身近な人間ならよく知っているあのいかにもぼんやりした態度で、わたしに肘掛け椅子をさし、自分は化粧台にもどった。そこで、黒い髪にふちどられた顔を、どぎつい光が黄色っぽく色どった何か病的な感じのする両手に埋めた。何かわたしに話かけたが、あいまいで、中途半端な話しぶりだった。この話しぶりにも、彼女の心の乱れ切った様子がうかがわれた。わたしが、この劇場で、第二ヴァイオリンをひいていると言うと、頭がひどく痛むから何かひいてくれと行った。「ええいいですよ。何をひきましょう? 『ヘ長調のロマンス』でも?」「ああ、それはだめ、ロマンスなんで特にだめよ・・・何かもっと簡単なのがいいわ・・・なんなら、音階でも・・・そう、音階がいいわ」わたしは、長く、重々しく、ゆるやかな音階をひき、その音は、まるで髪の毛のようにのびていった。こんなに若いのにこんなにもあきらめきったこの女性に、わたしは、うやまいたくなるほど、ひどく、心を動かされていた。彼女は、涙でもかくすように、部屋のすみを見やりながら、接吻してくれた。」
この後、ジャック・ティボーは彼女の部屋を訪ねた「みなしご」の若い「お針女」を家まで送っていくことになって、後日のこんなやりとりが記されています。
「・・・恋人ではなかったが、いつかエーヴ・ラヴァリエール嬢の部屋で出会ったあの若いお針女の魅力に(もっと正確にいえばさまざまな魅力に)、恋愛感情に近いものを感じていたと言うべきだろう。彼女は、ある有名な洋裁店で働いていた。夕方の七時に仕事場を出ると、最初に来たバスに飛び乗り、クリシー広場で降りる。それから、コーランクール街をくだって、わたしのアパルトマンの階段を大いそぎで駆けのぼり、部屋の入り口で、私と顔を合わせるのだ。わたしもそこで、胸のしめつけられる思いをしながら、いらいらと待っているというわけだ。「ねえあなた・・・わたしを待ってちゃだめよ。・・・勉強しなくちゃ。さあ、早く、ヴァイオリンを・・・」彼女は部屋のすみの窓のそばに座り、まるでお祈りでもするかのように掌をくみああせた。それから、もううっとりとしたように目を伏せた。・・・夜が、窓ガラスのところまで迫ってきていた。うすくらがりのなかで、わたしは、心をこめて、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドと音階をひいた。一方、そのすてきな若い女性は、わたしが音階を解いたり結んだりするのに耳をすませながら、涙をこぼしれくれたのである。「ねえきみ、何かほかのものをひいてほしくないの?」「どういうもの?」「モーツァルトとかさ!」「いや、いやよ!」「なぜだい! じゃ何かきれいなソナタをひこうか、・・・バッハか何かの?」「いや。わたしたちのあいだに、誰か知らない人がいるような気がするもの。・・・音階をひいてると、あなたがわたしに話しかけてるみたいなの」」
このふたつのエピソードは学生の頃にこの本を読んだときから脳裏に焼き付いてしまいました。音階やモードが秘めている大きな力、プリミティブな力を伝えてくれるエピソードだと思います。ジャック・ティボーの『ヴァイオリンは語る』はファンタジーのような彼の音楽人生を鮮やかに描き留めています。翻訳もきっとなめらかだったであろうティボーの口調を伝えているようです。(平仮名が多いのは原文のままです)
今日はもう1冊、若尾裕著『音楽療法を考える』(音楽之友社 2006)を買い求めました。帯に「音楽そのものの意味を問いなおす」とあるように、どのページを開いても音楽の機能を軸にした問い直しがあって示唆に富んでいます。
楽器店にいたのはほんの半時間ほどでしたが、店を出た時、空の色が明るく感じました。ここのところの疲れも少しばかり軽くなっていました。

縁の下の力持ち

この2週間、新型インフルエンザの国内発生の推移が早くて慌ただしい毎日です。一昨日の夜は夢にまで新型インフルエンザが出て来ました。テロリストが新型インフルエンザのウィルスをヘリコプターで空から撒いて様々な行事が中止に追い込まれるという夢で、目を覚ましたら脂汗をかいていました。寝ても疲れる(>_<) 難しい判断が続きます。
新型インフルエンザを巡る諸相から国民性や社会構造が浮き彫りになっており、私の関心も地球規模となっています。あらためて思うことは正しい知識と冷静な対応の大事さです。弱毒性と侮らず、また、不必要に恐れないことです。病弱教育に携わっているだけに私のテンションも高止まりです。
月曜日は東京に出張でした。東京駅から虎ノ門まで歩きました。東京には何度も行っているのですが、丸の内から皇居前、霞ヶ関と歩いたのは初めてでした。霞ヶ関は意外に狭く、そうと知らなかったら行政の中枢とは思えないでしょう。仕事上接点がある霞ヶ関の人たちの誠意を知っているだけに応援もしたくなりました。
タイトな毎日が続くとオフの大切さが文字通り身にしみてわかります。そんなことを口実にエレキベースを購入しました。あくまでも縁の下の力持ちとしてのベースです。ベースの王道を奏したいと思います。それにしても初めてのベースに5弦をチョイスするとは…

5月の日曜日のポコ・ア・ポコ

GWから続いた長雨も上がって今日は12家族のみなさまに来ていただきました。このところ口コミで来ていただく方が続きます。それだけに初めてにもかかわらずミュージック・ケアのセッションにすっと入っていただいて感謝しています。今日はビニール袋をほぐすところでお母さん方があちこちで“井戸端会議”をされてなごやかな雰囲気でした。今後、新型インフルエンザの状況によってはポコ・ア・ポコが開催できないことも出て来ます。今日はセッションの有無の確認のお願いをしました。
ポコ・ア・ポコの後、アテンザの外気温計は33℃を表示していました。昨日今日とたまった洗濯物を洗っては干し洗っては干しという週末でした。庭は草もしっかり伸びていました。雨続きの中で元気を取り戻したキュウリもぐったりしていました。キュウリはそんなにたくさん水分が必要だったのだろうか。トマトとピーマンは見る度に大きくなっています。フェンネルはとんでもない大きさになってきました。これからガーデニングのシーズンを迎えますが土日の予定も増えてくる時期ですが今年はこまめに世話をしてあげたいと思っています。

時ならぬ花粉症

一昨日はサンルームの大掃除をしたら体調がおかしくなりました。鼻水とくしゃみ、そして、夜は鼻づまりです。頭はぼーっとして夕方から横になっていました。これは何だろう・・・花粉症でした。サンルームのアルミサッシの桟も箒で勢いよく掃除したので、きっと、たまっていた花粉もかき出してしまって吸い込んでしまったのでしょう。深夜まで眠れず、意気消沈してしまいました。昨日もすっきりせず、何をしようとしても体が思うように動かないので徒に時間が過ぎてばかりでした。
庭に定植したマリーゴールドが元気がなくこのところ気がかりですが、今日は玄関前にもマリーゴールドを並べようとたくさん鉢植えにしました。今年の夏の花はマリーゴールドです。裏庭にはトマトの凛々子も1本植えました。凛々子はカゴメがトマトジュース用に改良したトマトですが、凛々子(りりこ)というネーミングと社外へのプレゼントは販売戦略としてグッドアイデアといえるでしょう。凛々子はリコピンからのネーミングだと思っていたらちがうようです。「全ての人へ『凛』とした美しさをお届けしたい」という願いがこめられているとのことです。2週間前に植えたトマトはぐっと伸びました。このトマトにも名前が付いていましたが覚えていません。一昔前なら「農林一号」などの名前だったことでしょうがちがう名前でした。前任校は「きらら」という言葉が校名に入っていて、北海道洞爺湖サミットのロゴマークに生徒の作品が選ばれたことで校名も広く知られることになりました。ある日、学校のネーミングの由来をたずね、学校要覧を所望する丁重な電話がありました。後でわかったことですが、その方は「きらら」という名前の米を品種改良で作った農学者でした。宮沢賢治の作品に登場する農作物や農作業を農学の視点から検証する研究もしてみえました。ネーミングはつながりを作りますね。アンネのバラというネーミングもメッセージ性に富みます。昨日、一輪咲きました。
『スーパーカー誕生』を購入した日にハンバーガー店で早めの昼食を食べていたら、テーブル2つをはさんだところの4人家族のお母さんがけっこう大きなアクションで5歳くらいの女の子の頭をいきなり平手で叩いて「ぺん」という大きな音がしました。私はそのことにも驚きましたがもっと驚いたことは、その女の子は叩かれても何事もなかったかのように表情ひとつ変えずにハンバーガーをおいしそうに食べ続けていたことです。弟と思しき男の子も然り。その家族の身なりはカジュアルながらきちんとしていてごく普通の家庭の印象です。お母さんからそうして叩かれるのは日常的であろうことは想像できますが、お母さんの叩き慣れと子どもの叩かれ慣れしている光景を目の前にして唖然とするばかりでした。人は自分がされたように人にしてしまいがちです。虐待も親から子へと伝わると聞きます。その子たちもどこかで思いっきり大切にされる体験と出会えることを切に思ってしまいます。
新型インフルエンザの感染が国内で確認されるのも時間の問題でしょう。長期戦となって新型インフルエンザとの「共存」も考えていかなければならなくなるでしょう。

『スーパーカー誕生』

沢村慎太朗著『スーパーカー誕生』(文踊社 2008)が出版社もすでに品切れになっていて探していました。アマゾンのマーケットプレイスではプレミアム付きです。先日、在庫がある書店をネットで見つけたので思い切って行って来ました。3冊が平積みになっていて1冊を購入しました。「クルマの本屋」というだけあって品揃えは資料館のようでした。内外の古今の自動車のカタログはキャビネットに整理してありました。時間がどれだけあっても足りないくらい立ち読みしたくなりますが、その中でもこの1冊はただものではないという直感があります。昨年の発売時に新聞の記事でこの本を知ってそう思うところがありました。4,980円という値段も800ページを超える情報量もちょっと敷居が高い印象ですが、果たして、半年後には売り切れです。知る人ぞ知る名著です。この本のすごいところは著者の徹底した取材に基づくスーパーカーの社会への位置づけにあります。スーパーカーに限らず沢村氏の探究心が緻密に紡いだ物語なのです。この意味で最相葉月著『青いバラ』(新潮文庫)と相通ずるものがあります。スーパーカーと青いバラはなぜ存在するのかという文脈が両氏の探究心を通して綴られています。何度も読むに耐える本です。
今日のドライブは休日割引の高速道路でした。私が走る方向は往復とも空いていてアテンザの走りを堪能するドライブでした。とりわけ久しぶりの東名阪で胸のすく走りとなりました。カーブの登り坂もアクセルのままに加速するパワーと安定感には惚れ惚れします。ドライブのための時間がないことが残念!
今夜の毎日放送制作「情熱大陸」のBGMはバッハのカンカータBWV156でした。楽器はソプラノサックス。歌舞伎俳優尾上菊之助を取材した番組にこのBGMはお洒落ですね。今、村治佳織のギターで聴いています。静かな演奏です。

掃除のGW初日

このGWは家の掃除とガーデニングに明け暮れそうですが、これも新型インフルエンザの感染が国内でみられないからこそできるというたいへんな状況です。携帯は片時も手放せない。先月末から某新聞社のウェブサービスと契約したので携帯にアラートのメールが入ります。また、ひとつひとつの記事がたいへん詳しいので助かっています。新型インフルエンザも社会全体の状況と合わせて総合的に捉えることが大事です。新聞は朝と夜しか読めないのでリアルタイムのニュースはありがたい。
今日は実家に置きっぱなしの自分の荷物の整理をしました。学生の頃からの物もあって丸一日かかってしまいました。でも、なつかしい品々とほんとに久しぶりの対面となりました。探していた物も見つかりました。探していた物とは初任の学校で使っていた楽譜です。少し前に知り合いから電話があって、その小学校の講堂に掲示されている詩の楽譜のことを聞かれました。どんな曲だったのかと。その歌「緑の中で」は私が採譜をして電子楽器でアレンジと録音をして、毎朝、始業時に運動場で全校で歌っていました。児童数が減少して他校と統合されることになって講堂に掲げられた詩のことも話題になっているようです。今日見つけた楽譜は毎朝の活動のプログラムの一部で、それを見ると、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」のワルツが毎朝流れていたようです。選曲したのは私のはずですが覚えていません。昭和59年5月のことです。こんなことをしながらなので掃除も時間がかかるわけです。