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教育と哲学

上田薫著「沈まざる未来を 人間と教育の論に歌と詩と句「冬雲」を加えて」(春風社 2008)が届きました。フリマサイトで見つけた本で著者のサイン入りとのことでしたが言葉も添えてありました。「枯れ野といへど反骨あたたむる 薫」です。これが目に入った瞬間に私の中で何かが崩れたような感覚に襲われました。そうか、こんな世界があったのだと細いペンで書かれた流れるような文字を何度も辿りました。出版は2008年、御年88歳のときの本です。日本社会のみならず世界への警鐘が緻密な言葉の連なりでこれでもかというくらいに書き込まれている。鬼気迫る筆致だ。帯の背の著者名の横には「思想の集大成」とあり、表紙のところの帯には「教育の世界に身を投じ、ひたすら新しい地平をひらこうとしてきた著者の「最後の」著書。珠玉のエッセイに加え、未発表の短歌・詩・俳句が“上田教育学”の真髄を伝える。」とある。ただただすごい本だ。心して読まないと活字の中に引きずり込まれそうな気がして今日はあちこちを拾い読みするだけにしました。それでも至るところで目が釘付けになりました。

「教育の問題に実践に即して深入りして一生が尽きようとしているが、私本来の道が哲学であることに変わりはない。いや教育の追究もその道の上にあったのである。」(2003)

ヨーロッパをはじめとして大学では教育は哲学の中の一分野でしたが今はそのことがすぐには頷けないような様相が前面にあるといえるでしょう。哲学とまではいなかくても教育は社会科学の一分野のはずですが今や「実学」として扱う内容がすぐに役に立つか立たないか、「役立つ」人材を育てることができるかという視点で云々されることが多い。だが人間ははるかに複雑だ。敷かれた線路の上を仕組まれた時刻表通りに進むようなものでは決してない。「答えはひとつではない」ことが広く認識されている今日、教育こそ哲学の視座から問われ続けることが必須ではないか。

大谷大学3学部化記念シンポジウム(20170624)のテーマは「Be Real ― 学ぶべきこと、意味 ―」で、基調講演2の講師は鷲田清一氏でした。その中で紹介されたフランスのエピソードを時々思い出します。

「フランスの行政官を養成する国立行政学院では、行政学とともに、例えば幸福について考える哲学の論文を書く必要があると聞きます。幸福とは何かを深く考えたことのない人に行政を任せるのは危険、という考えからです。日本の教育は当たり前のことをやっていないと思いました。 」(大谷大学ウェブサイトより)

また、本シンポジウムの課題意識については案内に「「即戦力」人材教育が叫ばれる現代社会。いわゆる実学系の教育・研究機関への期待度が高まるなか、宗教・哲学・思想することの意味はどこにあるのでしょうか。本シンポジウムでは、人文科学系の大学・学部ならではの学びについて考えていきます。」とあります。私は今こそ哲学、哲学的思考がきわめて大事だと考えます。私自身その学びの緒についたばかりですが…

DIY

今日は思いがけなくホンダのスーパーカブ110のリアキャリアに純正のビジネスボックスを取り付けるということになりました。パソコンの自作やバイクのマフラー交換など面白くてたまらない性格なので引き受けたまでですが、いざ取り付けようとすると情報があまりに少ないことがわかりました。ボックスの底に開ける穴のポイントがやたらたくさんあって取付金具をどう使うのかもわからない。ネットで調べるとホンダのウェブサイトからマニュアルをダウンロードするとか。URLを打ち込むと販売店用と思しきサイトでした。そこでマニュアルを探すと一目瞭然のPDFファイルが見つかりました。目の前の霧が晴れたように手順がわかりました。ところが指定のドリルの先端パーツがなかったりキャリアの面から低いところのボルトを外す工具がなかったりでホームセンターまで調達に行くことになりました。そうして準備が整ったら作業は順調に進んで手前味噌ながらきれいに仕上がってご満悦の気分でした。工具に注ぎ込まれたノウハウは数値ばかりでないと思いました。

DIYということではチェーンソーの準備をしています。かなり危険と認識しているので防護服などもそろえる予定です。いろいろ調べていくと林業の文化や醍醐味が分かってきました。必要以上のことはしないつもりですが冬になると今年も薪ストーブが気になって仕方がない。信州でたくさん見かけた薪ストーブと思しき煙突から白く立ち上る煙は心が温まるような風景でした。

伊那小学校の公開研究会の余韻とその増幅

暦通り節分を節目に立春を迎えたようです。空は明るさを増し、雨は乾燥した大地に春を迎えるための水分をしみこませます。この寒気も春に向かう自然の躍動を感じさせます。

先週の土曜日、長野県伊那市立伊那小学校の公開研究会に行ってきました。正確には「公開学習指導研究会」です。このときの余韻で1週間が過ぎました。この先もその余韻は通奏低音のように続くことと思いますが、すでにあらたな要素が加わって増幅されてきています。

今回で40回目とのことです。40年前というと昭和53年度、1978年が第1回ということになるでしょうか。大学の附属学校でも公開研究会は隔年というところがある中で公立の小学校が40年にわたってこうした研究会を行っていること自体に注目していまいます。「こうした研究会」というのは研究内容が総合学習ゆえになおさらです。伊那小学校は総合学習を学びの柱とし、子どもたちが山羊を飼っていたりチャイムやテスト、通知表がなかったりという特色で知られてきました。現在はちがってきているところもありますが、総合学習の取り組みを継続しているところから広く注目され、今回も600人を超える参加者があったとのことです。前述のような特色は注目の的となりやすいものの、保護者、地域の理解がなかったら成し得ない取り組みです。そこが信州の教育たる所以だと思いますが、こうした取り組みがどんな言葉で共有されているのか、そこが私のいちばんの関心事でした。

研究紀要の冒頭に信州大学の畔上一康先生が「伊那小学校の実践が問いかけることと」と題して「「総合」の思想と歩み」等々について説明をされています。「学力」第一で回っているかのような現在の学校教育の中で、しかし、畔上先生のこの文章はもっとも今日的な課題への提言であるように私は読んでしまいます。乱暴な言い方ですが、来るべきフェーズの学校教育について考え、論じようとするとき、こうした教育の思想や方法論に立ち返ることが欠かせないと考えます。そのためには畔上先生が最後に触れているヴァスデヴィ・レディの「二人称的アプローチ」のような二元論とは異なる視座が必須となる。(二人称的アプローチは他に佐伯胖先生の著書「「子どもがケアする世界」をケアする 保育における「二人称的アプローチ」」(ミネルヴァ書房 2017)に詳しい)

当日の「販売書籍・資料 リスト」から「三枝孝弘先生論文口述集」と「伊那小学校百年史」を買い求めました。前者は「本校の研究の創成期の指導者三枝孝弘先生の論文をまとめたもの」、後者は「総合学習・総合活動の創成期のことや、通知表のないわけなど伊那小学校の歴史をまとめたもの」とのことです。2冊とも拾い読み程度ですが、「三枝孝弘先生論文口述集」では冒頭の昭和54年の公開講演記録のテーマが「実存としての教育」とあって哲学のフィールドとの重なりなど興味津々です。早速、三枝孝弘編「学校と教育方法」(講談社 1981)を取り寄せました。そこから上田薫氏の著書へとつながってこの先はどこに向かうのか。上田薫氏は西田幾多郎氏のお孫さんとか。「上田薫著作集」などを取り寄せ中です。入り口はちがっても自分の関心の向かう先に現象学が見えるようになってきています。もちろんこれは私の慧眼ではない。時代、社会状況が求めているとは決して言い過ぎではないでしょう。

今回の信州行はホテルと伊那小学校を訪れただけでした。伊那小学校には朝8時前から夕方4時半過ぎまで9時間近くも滞在したことになりますがあっという間に1日が過ぎてしまいました。雪が残る中、自分たちで建てた山羊小屋を囲む柵の中で山羊といっしょに始まった1年生の朝の会の光景は記憶に刻まれています。「〇〇くーん」「〇〇ちゃーん」と子どもたちの名前(ファーストネーム)を呼ぶ若い女性の先生と「はーい」と応える子どもたち。中には柵によじ登ったまま返事をする子どももいました。教育の原風景を見た思いがしたというのも言い過ぎではないと思います。

アイキャッチ画像は伊那小学校の朝の空です。

今週はこれまた刺激的なNHK「100分de名著 オルテガ “大衆の反逆”」が始まりました。