月別アーカイブ: 2024年1月

萩原朔太郎「郷愁の詩人 与謝蕪村」より「詩境」の部分

この文章には「詩境」が16か所出てきます。「詩境」という言葉はその響きからも漢詩の世界を彷彿とさせますが萩原朔太郎は和歌(短歌)にも俳句にも新体詩にも通底するところとして論じています。冒頭、萩原朔太郎は次のように書いています。

「元来「詩」というものは、和歌も俳句も新体詩も、すべて皆ポエジイの本質において同じであるから、一方の詩人は必ず一方の詩を理解し得べきはずであり、原則的には「専門」ということはないはずである。」

「詩境」について調べていくうちに私もこの言葉が俳句や短歌、詩、漢詩にもかかわる概念ではないかと考えるようになってきました。備忘のためにコーパスに倣って前後をつけて抜粋して引用します。出典は青空文庫です。

「今日最近にいたって、僕は漸く芭蕉や一茶の句を理解し、その特殊な妙味や詩境に会得を持つようになったけれども、従来の僕にとって、芭蕉らの句は全く没交渉の存在であり、如何にしてもその詩趣を理解することが出来なかった。」

「そしてこの「蕪村の情操における特異性」とは、第一に先ず、彼の詩境が他の一般俳句に比して、遥かに浪漫的の青春性に富んでいるという事実である。」

「遅き日のつもりて遠き昔かな/蕪村の情緒。蕪村の詩境を単的に咏嘆していることで、特に彼の代表作と見るべきだろう。」

「蕪村の句には「さび」や「渋味」の雅趣がすくなく、かえって青春的の浪漫感に富んでいる。したがって彼の詩境は、「俳句的」であるよりもむしろ「和歌的」であり、上古奈良朝時代の万葉集や、明治以来の新しい洋風の抒情詩などと、一脈共通するところがあるのである。」

「全体に縹渺とした詩境であって、英国の詩人イエーツらが狙ったいわゆる「象徴」の詩境とも、どこか共通のものが感じられる。」

「「愁ひつつ」という言葉に、無限の詩情がふくまれている。無論現実的の憂愁ではなく、青空に漂う雲のような、または何かの旅愁のような、遠い眺望への視野を持った、心の茫漠とした愁である。そして野道の丘に咲いた、花茨の白く可憐な野生の姿が、主観の情愁に対象されてる。西洋詩に見るような詩境である。気宇が大きく、しかも無限の抒情味に溢れている。」

「すべてこうした幻想風の俳句は、芭蕉始め他の人々も所々に作っているけれども、その幻想の内容が類型的で、旧日本の伝統詩境を脱していない。」

「この句の詩境には、宇宙の恒久と不変に関して、或る感覚的な瞳を持つところの、一のメタフィジカルな凝視がある。」

「こうした詩境は、西洋の詩や近代の詩には普通であるが、昔の日本の詩歌には珍しく、特に江戸時代の文学には全くなかったところである。」

「単なる実景の写生とすれば、句の詩境が限定されて、平面的のものになってしまう。」

「前に評釈した夏の句「柚の花やゆかしき母屋の乾隅」と、本質において共通したノスタルジアであり、蕪村俳句の特色する詩境である。」

「前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨」や、この「小鳥来る」の句などは、日本の俳句の範疇している伝統的詩境、即ち俳人のいわゆる「俳味」とは別の情趣に属し、むしろ西欧詩のリリカルな詩情に類似している。」

「この句に主題されている詩境もまた、前の藪入の句と同じく、遠い昔の幼い日への、侘しく懐かしい追憶であり、母のふところを恋うる郷愁の子守唄である。」

「「侘び」とは蕪村の詩境において、寂しく霜枯れた心の底に、楽しく暖かい炉辺の家郷――母の懐袍――を恋いするこの詩情であった。」

「老の近づくことは悲しみである。だが老年にはまた、老年の幽玄な心境がある。老いて宇宙の神韻と化し、縹渺の詩境に遊ぶこともまた楽しみである。」

第九終了

第九の本番でした。合唱で参加しました。第九を歌うのは高校以来ということだけでなく歌うことすら音楽の授業で声を出すくらいだったので高い音は出ないしすぐ酸欠になってめまいがするしでエントリーしたことを後悔したこともありました。みなさんに助けてもらってやって来れたと思っています。

大阪交響楽団はさすがプロのオーケストラで、コンサートマスターが指揮者とオーケストラ、そして合唱をまとめ上げる様に惹き込まれました。その前日に別のところで指揮者と合わせてあるとはいえ、初めて合唱が入ってのゲネプロでは数か所を指揮者と二言三言交わして確認の演奏を1回するだけで仕上げて本番に向かうコンサートマスターとメンバー、指揮者はただただすごいと思いました。自分の歌を棚に上げてのことですが素晴らしい演奏だったと思います。

同じフロア(ステージ)でのオーケストラ体験は市民オーケストラに参加していたとき以来でしたがその肌感覚はすぐによみがえってきました。当たり前ですが各パートの音がきちんと分離して聴こえ、それらが絶妙な音量とバランスで音楽となっていくのはまさしくオーケストラの醍醐味です。モーツァルトが幼い頃、父が指揮するオーケストラの楽器の間をあちこち歩き回って楽器の音を聴いていたというエピソードを思い出しました。

ひとつ、たいへん興味深い言葉との出会いがありました。合唱指揮の馬場浩子先生が当日朝の声出しのとき合唱の私たちに言われた言葉です。

「今日は、音楽を楽しむというのではなく、音が音を楽しむようになればと思っています」

「音が音を楽しむ」に続く言葉は記憶が曖昧なのですが、「します」とか「させたい」というニュアンスではなく「おのずからなる」という意味合いだったと思います。「音が音を楽しむ」という言葉を私が正しく理解しているかどうか心もとないのですが、音楽を奏でることの核心、きっと中動態のような様相がそこにあるのかもしれないと思っています。至高の演奏であり音楽なのでしょう。この言葉の解釈は時間をかけて考えていきたいと思っています。

あと、第九の合唱は立ったままでいる時間が長いので昨年5月に骨折した右足首は全治の目安の8か月がやっと過ぎたところで足の痛みや違和感が残っているので不安がありました。リーガルのトラディショナルスタイルの黒の革靴を履いて行ったところ硬くしっかりした革がサポートして思いの外楽で、左右の足の感覚に大きな差もなく難なく立っていられたのも大きな収穫でした。ほぼ全治に近いところまで回復しているのだと思って一安心しました。

小林かねよ著『児童の村の思い出』


今や希少本でなかなか入手できなかったこの本、小林かねよ著『児童の村の想い出』(あゆみ出版 1983)がやっと私のところにやってきました。小林かねよは池袋児童の村小学校に開校2年目から閉校までの12年間勤めました。小林かねよのことは浅井幸子著『教師の語りと新教育ー児童の村小学校の1920年代』(東京大学出版会)で知ってぜひ著書を読みたいと思っていました。

この本の学術的な価値は私から述べるまでもありません。私が思いつくまま付箋を付けたところからの引用を交えて少し書きたいと思います。

いきなり晩年の話になりますが、大阪に住んでいた小林かねよが病気療養のため阪和病院から津市の国立三重病院に転院して療養中そこで亡くなったという記述に驚きました。私は国立三重病院併設の病弱特別支援学校に6年間も勤務していたのに大正自由教育を展開したもっとも注目される池袋児童の村小学校の開校2年目から閉校まで勤務して子どもたちと学校を支えた人が最期を迎えていたとは想像もできませんでした。葬儀は津市久居のカソリック教会で執り行われたとか。今、この記事を打っているのはその津市久居のアルプラザです。不思議な縁を思います。

この本には病気の子どものことも出てきます。

病気欠席
病気で休む人が多いようだ。ただ今では、山根君、飯塚君、森田君の三君が、ずっと休んでいる。体の丈夫が一番である。これから梅雨期になると伝染病もポツポツ発生してくる。衛生上の大事なことを、いつも忘れないようにしたいと考える。(昭和二年六月六日)
121p

明治大正昭和と病気の子どもたちは多かったことがわかっています。栄養摂取が十分でなかったこと、衛生状態が良くなかったこと、また、医療も現在のようには進んでいなかったことなどがその背景にあります。当時の学校の先生はこうして心配し、気づかっていたことがよくわかります。

「あの頃の池袋と長崎東町」より
児童の村には、通知表のようなものは無かった。教師が一人一人子供の観察を、個人別のノートに記した。子供が帰ってから、一人一人、今日一日の生活を思い出してつける。この仕事は、かなりの時間がかかった。
 父兄の方々には、時々このノートを見せて学校での生活を知って頂き、父兄の感想なども書いてもらった。父兄の方々とは、こうして連絡をとっていくので、六年の卒業のころは、お互いに何もかも判ってしまって親類のようになってしまう。
147p

昭和31年から通知表をなくして今もないという小学校が長野県にあります。伊那市のその小学校でも先生はノートに日々の記録していてそれは1年で相当な量になっているようです。学期末の懇談会ではきっとたくさんのエピソードとともに保護者に伝えられていることでしょう。

[解説] 立教大学文学部教授 中野 光 より
 和光学園のことについての話が一段落したとき、
 「でもね、私に一人で生きていくことを教えてくれたのは、児童の村だったんですよ」といわれ、カバンの中から一冊の白い表紙の絵本をとり出された。それが本書の内容になったものである。
206p

この「一人」というのは何も家庭をもたないということではない。自分で見て自分で確かめ、自分のことは自分の考えて仕事をしたり日々の生活を送ったりということです。このあたりの表現は難しいのですが、輪郭がしっかりした人とでもいうのでしょうか。前述の伊那市の小学校を訪問したとき、やはり「一人ひとり」ということを感じました。総合学習然り、教科学習においても一人ひとりが自分なりの学習を進めていた光景に驚きました。そうした風土は先生自身がそうでなければ生まれないものと考えます。先生自身が研鑚し自分の学びを続けることが欠かせない。伊那市のその小学校の学校評価表には哲学書を読むことが研修として位置付けられています。池袋児童の村小学校の先生たちもまた大正新教育を牽引した人たちで思想的な側面ですすむべき道を追究し続けました。小林かねよも附属学校を辞めて条件の良くない池袋児童の村小学校の教育に身を投じています。そこで学んだ元児童の証言は門脇厚司著『大正新教育が育てた力-「池袋児童の村小学校」にありありと記されています。何事も自分で考える子どもたちが育っています。

「児童の村を支えた教師たち」より(小林かねよ)
私は一番最後まで長崎村に残り、校舎が他人に買われて、こわされ、材木として運ばれていくのを見、瓦が一枚一枚積まれていくのを、身の細る思いで眺めていた。最後に、皆がよく登って遊んだ椎の木が、父兄の桑本澄氏のテニスコートに運ばれて行くのを見送った。子供たちの思い出をその木の中に秘めて根っこを縄でくるくる丸くまかれて車に積まれた。私は皆の心を代表して椎の木と別れた。影の見えなくなるまで見送る私の心の中で秋風が吹き抜けて行った。
87p

1936年(昭和11年)、池袋児童の村小学校が閉校して校舎も子どもたちに親しまれた椎の木も姿を消す一切を見ていた小林かねよとその地の寂寥感が伝わってきます。わずか12年間で閉校となって教育史等においても必ずしも大きく取り上げられてきたわけではありませんがそこで試みられた「教育」は子どもの育ちのみならず社会のあり方を問うものであったと考えます。

池袋児童の村小学校は教育の世紀社が運営をしていました。同名の雑誌『教育の世紀』は幸運にも復刻版全巻と別巻を入手することができました。野村芳兵衛や小林かねよらの投稿が読めるのが大きな喜びです。

喪失とブラームス

仕事初めの1月4日の帰りに車中のFM放送はラ・ローチャの特集でした。なんと懐かしい名前と思って聴いていたら次の演奏はブラームスのピアノ協奏曲第2番変ロ長調から第3、第4楽章でした。演奏が流れると私は瞬時にその音楽に包まれているのを感じました。重厚なオーケストラに対峙するかのような力強いピアノ、そして、管とバイオリンの切なく美しい旋律がたなびくように何度も奏でられる。私は音楽に包まれているだけでなく心も身体も癒され支えられているのがわかりました。猛烈な勢いでクラシック回帰に向かっているのがわかります。オデッセイでクラシック音楽が聴けるのも後押しとなっています。

大学生の時、図書館で音楽之友社の『音楽史大図鑑』を見つけました。目を引いたのはブラームスやリストの若き日の姿でした。整った目鼻立ちの凛々しさは音楽への情熱を彷彿とさせているように思いました。伸びた髪とひげの年老いた巨匠ではなくあふれる情熱を内に秘めた若者の姿でした。その情熱は女性にも注がれ、ブラームスはクララ・シューマンを恋い慕ったとか。そのエピソードはどこかで知ったのですが図鑑のブラームスの姿を見て腑に落ちるものがありました。

この今になってブラームスに惹かれるのは何故か。年末に届いたやまだようこ著作集第8巻『喪失の語り 生成のライフストーリー』(新曜社 2008)を読んでいるうちに喪失(死別に限らない喪失)が自分にとっても大きな影響を与えているのではないかと考えるようになってきた矢先のラ・ローチャのブラームスでした。この本は喪失と生成がある意味「対」となって描かれていますが、喪失がもたらす抗いがたい負のエネルギーは何も変わらない。喪失の瞬間から生成が始まっているのですが、当人がそれを身をもってわかるには相当な時間とエネルギーが要る。後者は人であったり本であったり、また、旅であったり、そして、音楽などアートも大切な手掛かりとなり後押しとなると考えます。思えばたくさんの喪失があり、それがどこまで整理できていたのか、これからも時間がかかるのか。私にとっては少なくとも音楽と美術、そして、様々なジャンルの本たちが伴走してくれると思っています。

そんなことを考えながらブラームスについて書かれた文章を読みたいと探っていたら新保祐司著『ブラームス・ヴァリエーション』(藤原書店 2023)を見つけました。書影の帯には次のようにあります。

ブラームスを通して歌う“近代への挽歌”
コロナ禍の逼塞の日々に、にわかに耳を打ったヨハネス・ブラームス(1833-97)。
ベートーヴェン以後、近代ヨーロッパが黄昏を迎える19世紀を生きたこの変奏曲の大家の、ほぼ全作品を「一日一曲」聴き続ける。
音楽の主題から、文学・思想・人間・世界・文明へと自在に「変奏」を展開し、現代への批判の視座を見出す、文芸批評の新しいかたち。

今の社会状況の中で、今の人が、今の言葉で綴った本であることに何かしら私が思い巡らす喪失に通底するものがあるのではないかと早速取り寄せることにしました。

喪失を生成へとつなぐ針と糸はどこにどんなふうにあるのだろうか。

元旦に届いた本

新年早々の大きな地震で防災意識が下がっていたことを痛感。

元旦に届いた2冊の本は、上野千鶴子著『八ヶ岳南麓から』(山と渓谷社 2023)と上野の森美術館の「遠藤彰子展 魂の深淵をひらく」図録(上野の森美術館 2014)です。

上野千鶴子著『八ヶ岳南麓から』は著者が20年前に建てた八ヶ岳南麓の自宅を巡るエッセイですが単に八ヶ岳高原の風光を愛で暮らしの素晴らしさをなぞるようなものではなく上野氏の鮮やかな切り込みが随所にあってすこぶる面白さがあります。「理想と現実」が描かれているように見えて双方が相対する位置にあるのではなくそのどちらをも同じ目線で見て一喜一憂しながら全体として楽しんでいると読んでいます。社会学者の透徹したまなざしはもちろん鮮やかです。「クルマ道楽」に出てくる車には手が出ませんが氏の生き方を象徴しているかのようです。「中古別荘市場」に出てくるポルシェに乗るという夢を果たさずに死んだ男友だちを「やりたいことをやらずに死ぬなんて、ばかなヤツ、とわたしは彼を悼んだ。」という一文は友への最高の弔いであるにちがいないし今の私への応援メッセージと勝手に思い込んでいます。

もう一冊、上野の森美術館の「遠藤彰子展 魂の深淵をひらく」図録は前々から気になっていた遠藤彰子の「画集」です。遠藤彰子の絵は前々から印象に残っていたのですが、新宿書房から出ている「野本三吉ノンフィクション選集」のカバーに使われていて見る度に気になってきていました。私は遠藤彰子の街シリーズというのか、建築物と人、とりわけ子どもが歪む空間に描かれている絵が気になって仕方がないのです。遠近感のようなものはありながら伝統的な遠近法ではなく遠い近いではなく時間の歪みを感じさせる絵で、そこに描かれている子どもの姿もまた一人ひとりが心というか魂を奪われているかのような没頭感があって怖さは一様ではないが目を逸らすことができないのはなぜ?と考えてしまう。その1点1点が100号超というから上野の森美術館の迫力は相当なものだったことと思います。絵と時間について、他のことも気になっていてしばらく追うことになるでしょう。