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ドラマ「心の傷を癒すということ」

NHK土曜ドラマ「心の傷を癒すということ」が先週から始まって今日は第2回でした。この番組を知ったのは精神科医の中井久夫氏がモデルとなった神戸大学医学部教授が登場するとのTwitterの書き込みが少なからずあったからです。また、先週の第1回の放送後は主人公のモデル、安克昌氏も中井久夫氏もその佇まいが彷彿としているとのtweetが流れました。研究室で中井先生(「先生」のほうがしっくりします)が出してくれるスパゲッティも然りだとか。医学部生の安氏が「人間の心っていう不思議なものをなんとかして理解しようするのが精神科医や」と精神科医になることに反対した父に思い切って話します。彼は高校生のときから中井先生の著書を読みふけるシーンがあります。ふたりとも故人で著書を読んで行きたいと思いますが、いちばん目にしたいのは中井久夫先生の講義を「私よりも細かくていねいにわかりやすく書いたノート」という「安ノート」です。単にわかりやすいということではなくふたりの知恵の結晶がそこにあるように考えるゆえです。

このドラマではまた、精神科という分野そのものへの偏見が描かれています。災害時の心のケアはこのドラマの主人公安克昌氏の取り組みが大きなきっかけとなって社会的認知を得ることになったと思っています。心のケアをすぐに精神科医療につなげるべきものなのか、私はややしっくりこないものがありますがそれは「ケア」という言葉が含む広い概念ゆえでしょうか。精神科医療への敷居が低くなったのは良いことと思います。ただ、東日本大震災の避難所では「心のケアお断り」「心理カウンセラーお断り」と書かれた紙が貼り出されていたと聞いたことがあります。くれぐれも支援する側に立つ人自身が自らの姿勢や意識を問わなければならない。

また、私はこのドラマの時間の流れに自分の高校大学のころを重ねてしまいました。文字通り時間の流れです。不思議なことに歳を重ねていくと時間の流れははやくなってきます。若いほどおそい。おそいというより時間の感じ方がわからないというべきでしょうか。ドラマに時折り流れる静かなピアノと安和昌が弾くジャズピアノがその時間の流れに引き込む。時は1981年、私は大学を出て1年目でしたが当時の大学生はそんな時間を過ごしていたという記憶があります。身体感覚としての記憶です。今は死語になっているかもしれないジャズ喫茶や名曲喫茶に流れる時間は不思議なくらい思い出すことができます。もちろんそれは音楽が為せることです。そんな時間が中井久夫先生の講義にも流れていたのだろうか、そして、精神科医療の核は何なのだろうかと思いを馳せます。

写真・カメラ談義

仕事や取り組んでいることがひとつまたひとつと終わっていきます。その度にほっとしますがすぐまた次のタスクに取り掛からなくてはならない。そうして月日が過ぎていきます。ゆとりはなく悩ましいのですがかといって悲愴感はない。泳ぐのを止めると死んでしまう鮫のようだと思うことがあります。

先週、奈良原一高氏が亡くなりました。昨年末の日曜美術館で特集が組まれ、先々週には彼の写真展を東京で観たばかりで、また、やはり東京で開催の写真展「人間の土地/王国Domains展」の目録を取り寄せたばかりだったので驚きました。写真展の開催中というタイミングに亡くなったわけで数々の話題の作品を発表してきた彼らしいのかなと、ふと過りました。

写真ということでは『アサヒカメラ』1月号はレンズの特集で、標準レンズとされてきた50㎜レンズや「無人島に一本だけレンズを持って行くとしたら…」などについてプロの写真家128人の考えが紹介されているのは興味深い。私もカメラを持ち出すときはフルサイズだけでなくAPS-Cでも携行するレンズを1本に絞って身軽に行動したいとあれこれ考えることがあります。フルサイズならパンケーキレンズのEF40mm F2.8 STMが小気味良いし山行ならTokina AT-X 17-35 F4 PRO FXの広々感が良い。APS-CではしばらくEF-M11-22mm F4-5.6 IS STMを使ってきましたが“お散歩レンズ”ならやや画角が狭くなるもののEF-M18-55mm F3.5-5.6 IS STMの方が良いかもと思えてきました。悩ましいレンズ選びですがささやかな愉しみです。

朝日新聞社のAERAのウェブサイトでは『アサヒカメラ』の特集と連動して「写真家128人が回答 「標準レンズ」って何ミリ?」の記事が出ています。35㎜と50㎜が1位2位で4割強を占めていて40㎜~45㎜も9人います。私ならやっぱり40㎜とするでしょう。高校のとき使っていたキャノネットのレンズはたしか40㎜でその画角が馴染んでいるのかもしれません。

ところで、雑誌『太陽』(平凡社)No.203、1980年3月号の特集は「佐伯祐三 絵画 vs 写真」で、佐伯祐三の絵に描かれたパリの街の風景を写真家の高梨豊氏が同じ構図で写真に撮ろうという企画です。今日この本で確かめたら121㎜や150㎜などの望遠レンズがほとんどだったのですが、別のところで高梨氏は佐伯祐三の絵は50㎜の画角とほぼ一致する旨を語っていたような記憶があります。「佐伯祐三と標準レンズの眼差し」と題する2008年12月22日の記事を引用します。

昨日、日曜日の朝、NHK-ETVの「日曜美術館」は佐伯祐三の特集でした。この7月に三重県立美術館でまさに対峙したともいうべき佐伯祐三の絵画の強い印象がよみがえってきました。この番組中で驚いたことがありました。写真家の高梨豊が、佐伯祐三が描いたパリを写真に撮って回ったところ、50mmの画角でほとんどの写真が合致したというのです。35mm判で50mmは標準とされていますが、実際に50mmレンズを着けてファインダーでその画角を見ると思いの外狭く感じます。広角でも望遠でもない、中途半端な画角とされがちで標準と名付けられながらほとんどマニアックな扱いを受けてきました。でも、その画角が人間の目の見方にいちばん近いとのことです。私たちは広い視野の中で自分が見たいものに焦点を合わせて他の情報と区別します。物理的な視野と情報処理上の視野とは自ずから異なるわけです。でも、人間は欲張りなのでしょう。1枚の写真の中に広さを求めることがあります。では、佐伯祐三の視野は何だったのか。自然体でパリの街を見つめ、切り取ってカンバスに再構成したということもできるでしょう。自分の目がまっすぐ見つめるものだけをカンバスに描いた。50mmレンズの画角の窮屈さを知っているので佐伯祐三の気迫のエネルギーの凄さに圧倒されるのであろうか。(引用ここまで)

50㎜の画角は今も窮屈だと思っています。いわゆるスナップショットで風景を「切り取る」感覚ならいいのかもしれませんが、『アサヒカメラ』1月号の記事によるとそれは道路が広いヨーロッパでの使い勝手で日本なら35㎜がスナップショットとして標準ではないかと。フィルム全盛期はそこからトリミングするので画角はもっと狭くなることも少なくなかったと思います。なるほどと思いましたが私は40㎜党です。いつになったらカメラだけを持って散歩に行けるのだろうかと思いつつしばしの写真・カメラ談義でした。

『精神看護』2020年1月号

年末大掃除の真っ最中に届いた『精神看護』2020年1月号の「座談会 千葉雅也×國分功一郎×村上靖彦×熊谷晋一郎×松本卓也 統合失調症から自閉症へ ロビンソン・クルーソーは無人島で誰に最初に出会うのか」を年末年始に何度も読み返しました。

この特集は昨年7月27日に大阪で開催されたイベントの文字起こしで、主催は塩飽海賊団という臨床心理士らが立ち上げたグループです。そもそもそのネーミングがどこか怪しいのですが、前述の5氏が一堂に会するセッションは只事ではないと一も二もなく参加を申し込みました。当日は100人超の聴衆が大きめとはいえない会場につめかけていました。私は一番前の席に着いたこともあって5氏の息遣いまではっきりとわかるリアルタイムの知の饗宴に決して大げさでなく前のめりになって酔いしれてしまいました。メモをしまくりましたが追いつかずで『精神看護』の特集がほんとにありがたく、医学書院の諸氏に感謝感謝です。

さて、私をしてこうした場に行かしめたのは一体何だったのか。『精神看護』での文字起こしを読んで、やっぱりそうかと、前々から気になって時に記していたことを確信できたように思います。昨年8月6日の私的な勉強会の資料の冒頭に記したこと、「今考えていること/教育者は教育の言葉で教育を語っているか/~教育の言葉を取り戻したい~」という欲求なのです。

昨年度末の初任者研修の研究授業の学習指導案を作成する時、指導案を作成する毎に感じてきたある感覚がよみがえってきました。指導案の言葉、文言が自分のものとは思えない違和感です。その研究授業の直後に私はブログに次のように書きました。

「指導案は授業者の意図が記述されているはずですがどこまで書き切っているといえるのか。そこで使われている言葉は授業者の言葉なのか。子どもたち一人ひとりの姿が素のまま浮かんできているだろうか。子どもが生き生きと描かれているだろうか。そもそも授業の意味について授業者は自分が納得できる言葉を持っているのだろうか。こうして書くと問い詰めているようですが授業準備はとても面白いものでした。目の前で起こっているのはどういうことなのだろう、これは何なのだろうと言葉を見つけていく作業でした。このプロセスは多分に現象学の発想が生きているように思っています。」

学習指導案作成の指導は私自身が教育の言葉を見つけていくプロセスそのものでもありました。なかなか言葉が見つからず、かろうじてこれならと使った言葉は昨年度から勉強を続けてきた現象学でよく用いられる概念や言葉にあることがわかってきました。そして、授業を研究する第一のキーワードを「心躍る経験」としました。その授業は「心躍る経験」によって子どもにも先生にも意味があると共通理解できるのではないかと。これは現時点でも間違っていなかったと思っています。

戻りますが、『精神看護』のこの記事を読んで、教員は教育を語るに欠かせない言葉の何割かを持っていないことがはっきりわかりました。37年の教員経験で靄のような霧のようなものを感じていたことの理由です。座談会ではとりわけ熊谷晋一郎氏と村上靖彦氏が指摘しています。ここでは熊谷氏の発言から長くなりますが引用します。

熊谷晋一郎
 「哲学に何ができるか」という話を私ができるかどうかわからないですが1つ言えることは、当事者研究もやっぱり言葉や概念を生み出そうとする試みだということです。自分の経験をうまく言い当てる言葉、あるいは理論、あるいは概念を生み出す。その時に日常言語だけでは足りないということに突き当たる時があります。
「日常言語のやさしい言葉で話すことが当事者に寄り添ったことだ」というふうに勘違いされていますが、日常言語ほどバリアフルなものはない。日常言語というのは、健常者向けにデザインされているツールなんです。つまり、日常言語だけで足りている当事者はまだ自己表現しやすいのですけれども、「当事者研究で言葉を生み出す活動が必要だった当事者」というのは、世間で流通している日常言語では自分の経験や思いを形にして人に伝えることが困難だった人たちだと思います。そういう意味で、いろいろな専門分野から言葉を借りたり、それをアレンジして自分のことを表現する言葉として活用したりする当事者たちの、そういったその貪欲な取り組みが世界中で始まっていると思うんですね。
 哲学者というのは、他の研究者以上に概念を吟味することに長けた専門家集団だと思います。哲学の分野が洗練させてきた概念の中には、日常言語がバリアフリーになっていない当事者にとっては使い勝手がいいものがある。それを丸ごと使うのはちょっと違うんですけれども、誤読も含めて活用あるいは転用することで、当事者研究は進むという部分もあるのかなと思っています。
 私は國分さんの本を読んだ時に、こういう言い方は失礼かもしれないですけど、「これは使える!」と思ったんです。登場してくる概念が当事者研究に使えるということです。そういう意味では、当事者主導で、なおかつ哲学者が生み出す精緻な概念を活用していくというつながり方があり得ると思います。(引用ここまで)

彼は当事者研究について述べており、取りも直さずこれは学校の先生たちが授業や日常の場面で自分たちの目の前で起こっていることについて、子ども(たち)と自分(たち)のこととして、つまり当事者としてそのことを研究するという意味においてまさに学校の先生たちも当事者研究を行う当事者そのものであるはずです。そこに、それに見合い耐えつつインスピレーションを与える言葉があるのかどうかということを私は俎上に上げたい。学習指導要領や学力、キャリア教育といったフィールドの言葉だけでなく、教育の最前線の一瞬一瞬の意味を語る言葉です。昨年度の指導案作成にあたってあらたに何冊かの本を読みました。その中の1冊、西岡けいこ著『教室の生成のために メルロ=ポンティとワロンに導かれて』の一文に目が留まりました。「意味生成の開かれを共にする楽しさ」です。これこそ「この研究授業で追求したものは何だったのか!?」という問いへのひとつの視座と考えました。もちろん、なぜそう言えるのかについては詳細に考察しなければならないのですが、この言葉にインスピレーションを得たことで授業づくりがますます面白くなりました。概念や言葉を探すことは、でも、悩ましく苦しい営みです。参照する文献は膨大です。終わりのない旅と言えます。それだけに取り組む意味と喜びがあると考えます。

※アイキャッチ画像は元旦の白米城跡から望んだ空です。

東京にて

3連休は東京で遊民三昧で今日は2日目でした。昨日は池袋の書店に取り置き注文した本を受け取って午後は首都大学荒川キャンパスで開催の現象学の研究会、今日は世田谷美術館の「奈良原一高のスペイン――約束の旅」と午後は東京大学駒場キャンパスで開催の「哲学×デザイン プロジェクト 障壁のある人生をどのように生きるのか」に行きました。

取り置き注文したのは『現代思想 2013年5月号 特集自殺論』(青土社)です。お目当ては医療人類学の北中淳子先生の論考です。自殺は精神医学が対象とする事象だと今では誰もが疑わないようなことも自殺と精神医学の歴史を辿るとかつてはそうではなかったとのこと。「一九九九年に亡くなった江藤淳の自殺が一種のロマンティシズムを持って語られ」という下りは当時の自分もまさにそのひとりだったことを思い出しました。人生の「行き詰まり」のひとつの帰結が自殺という受け止めか。日本と世界の精神疾患とされることの歴史やそれぞれの時代や社会での認識は知れば知るほど首をかしげることばかりです。こうして調べていくと人間とは何かという究極の問いを考えている自分に気がつきます。

現象学の研究会は東京と大阪で交互に毎月開催されていて東京会場は今回が初めてでした。内容はほとんどが看護や医療をフィールドとしたものですが、私は常に教育ではどうなのかと自問しながら参加しています。この研究会では発表もさることながら討議からもたいへん貴重な示唆や知見をいただています。今回も然りでした。website

「奈良原一高のスペイン――約束の旅」は先日のNHK「日曜美術館」で特集があって知った写真展です。奈良原一高は私が写真に興味を持ち始めた中学生の頃から目を引く作品が写真雑誌などに多数掲載されていました。ドキュメンタリーあり、ポートレートあり、コマーシャルあり、ファッションありと幅広いジャンルでしたがどれも目を引きました。今思うとそれは造形的と私の目に映ったのです。当時私は造形的な構図に惹かれていてわけで、社会的な背景やメッセージは後から深く気づかされました。今回のスペインの作品も強烈な印象でした。1963~1065年にかけて彼自身が運転する車でスペインの小さな村も訪れて撮影しており、マスメディアに取り上げられないような貧困層の暮らしにも彼のレンズが向けられる。「なぜそこに住むのか」「なぜそうして暮らすのか」という問いではなく、「なぜそうなのか」という社会への問いが沸き起こる。インスタグラムは往々にして見栄えのするベストショットがアップされている。「インスタ映え」という言葉まで生まれたくらいだ。私が中学高校の頃はある意味「汚い写真」の方が注目されていた。被写体もさることながら増感現像などで意図的に粒子を粗くした。見てはいけないものを見るような感覚があったが妙に「すごい」と感心していたことを思い出します。社会の底辺、裏、貧困、病気等々の現実が目に焼き着く厳しい事実がそこにあった。奈良原一高もそうしたドキュメンタリー全盛期に注目されていたわけですが、どこか、何かがちがっていました。そのひとつが造形的な構図だったのではないか、少なくとも中学高校の頃の私の目にはそう映っていました。今回は「おとな」として彼の作品に接したわけで、写真から伝わるエネルギーに何度か背筋を伸ばし直すために大きく息をしながら会場を回りました。そして、今、このようにして残しておかないとすぐになくなってしまいそうな現実があることも思いました。

午後の東京大学大学院総合文化研究所・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP:The University of Tokyo Center for Philosophy)の「哲学×デザイン プロジェクト19 障壁のある人生をどのように生きるのか」に行ってきました。「障壁のある人生」と歩んできたという4人のスピーカーの話のあと、座談会のような時間が持たれました。ゆるいといえばほんとにゆるい会で、そのことでスピーカーのみなさんはもしかしたら普段は触れない自分の体験をお話しされたのではないかと思いました。障害者ゆえに受けてきた差別や学校でのいじめ、多様な生き方が許されない日本社会、イギリスやアメリカの状況等々、よくぞその中を歩んでこられたと思いました。4人のスピーカーに共通するところは高学歴でアカデミックな立ち位置にいるということでしょうか。それだけに障壁を巡る社会を俯瞰し、鋭く切り込みを入れて核心を突きつつ歩むべき方向性がそれとなく感じられる催しだったように思います。その中のひとり、ネットの論考でしか存じ上げなかった先生と話をすることができ、また、スライドの写真を撮らせていただいて大きな収穫となりました。その言葉や着眼点など、どうして今まで知らなかったのかと自分の不甲斐なさを思いました。このイベントは子ども連れも歓迎とのことで赤ん坊から幼児、小学生まで10人くらの子どもたちも来ていました。走り回って遊んだり泣いたり発言するお母さんにまとわりついたり、そして、全体ホワイトボードの壁面に質問や意見を書くときは落書きをしたりとのびのびと過ごしていました。これも初めての体験でしたが私も不思議と気になりませんでした。website

ところで、世田谷美術館は用賀駅前の案内表示通りに進んだら四角形を対角線上に行けるところを短辺と長辺をなぞる遠回りのルートになってしまいました。でも、これが知らなかった世田谷の姿を目の当たりにすることになりました。その道筋はかつて田畑が広がっていたのでしょう。所々に黒い耕地が残っていてかつての農家を思わせる広い敷地の生垣や雑木林がある家が点々とあり、それを囲むように新しい家が碁盤の目のように整備された広い道に沿って建っていました。輸入車もたくさん見かけました。手の届かない暮らしがあるように思いました。その中を歩いて世田谷美術館に行き、午後は東大駒場キャンパスでした。地方ではどう転んでも経験できない空間と時間が東京にはありました。東京に住みたいとは思いませんがこうして過ごす時間は自分の“感度”を高めるためにも時々ほしいものと思いました。