月別アーカイブ: 2017年12月

大晦日のラジオ

知人が通勤ドライブでNHKラジオ第1を聴いていると知って私も聴くようになりました。ステップワゴンのAVナビはテレビがアナログ当時のものでラジオかCDを聴くしかなくて一時は更新も考えましたがそれはちょっとおもしろくないと思ってのAMラジオ回帰となりました。今日は実家への往復でAI関連の番組をたいへん興味深く聴きました。

「AIにできないこと、ないのは人間力である。」「AIの発達で脳は変わる。脳は可塑性がある。しかし、身体は追いつけない。今後、脳と身体は乖離が進むであろう。身体は狩猟農耕時代から大きく変わってはいない。」

次期学習指導要領のポイントを示すポンチ絵の「育成を目指す資質・能力の三つの柱」で三角形の図のいちばん上にあるのは「学びに向かう力/人間性等」です。人間性を教育でどうやって育成するのか。人間性の育成を学習指導要領で示し得るものなのか。私は疑問に思っていますが、今日、前述の放送を聴いていたとき、AIを巡る様々な想定の中からの発想ではないかと考えました。学習指導要領は10年に1回の改訂です。これからの10年はこれまでの何十年とはちがうスピードと局面をもって変化していくのではないか。想定できない変化がきっとあるはずと誰もが考えるような状況ではないか。半分苦し紛れかもしれませんが、これまでもそうだったように、でも、これからはさらに大切になってくること、それは人間力しかないという検討のプロセスがあったのではないかと考えます。人間性という言葉はちょっと楽観的過ぎるように思います。今日の番組で聴いた人間力という言葉はその文脈からしてリアリティがあり、私の腑に落ちるものでした。

マフラー

今日は年末の大掃除が一段落した夕刻にショッピングモールに出かけて雑貨店でいろいろ見入ってしまいました。とりわけイギリス製とフランス製のマフラーとショールのデザインや質感に惹かれました。デザインはシンプルで深みのある色と相まって何かしらの原型をイメージさせます。肌触りも野性味のある優しさがあります。文化のちがいといってしまえばそれまでのことなのでしょうが、このところ“日本製”のマフラーばかり注目してきたのでとりわけイギリス製の素朴で深みのある質感は魅力的です。

この冬、私がふわっと纏うマフラーに惹かれるきっかけとなったのは映画「秘密の花園」のメアリーの大きなえんじ色のニットの帽子です。“気が強くてわがままでかわいげがなくてまわりからからかわれている“メアリーですが、芯のあるまなざしと鋭い洞察力で局面を変えていく姿は私には魅力的です。よく見るとあまり似合っていそうにない大きなニットの帽子ですが、これも彼女の群れないindependentな姿勢を描くうえで一役を担っているように思います。

「名刺がない」という夢

昨夜はこれまでも幾度か見てきた不思議な夢をまた見ました。名刺を渡すシーンがあって名刺入れを探すのですが自分の名刺が1枚もないという夢です。何かの依頼であるお宅を訪ねるのですが、やはり名刺がなくて、仕方なく来年度から使いたいと試し刷りをした名刺を渡すことにしたというストーリーでした。これまでとちがうのは来年度から使いたいと試し刷りをした名刺を持っていたことです。フリーランスを想定したものです。これはまんざら夢物語というわけではなく、朧気ながら考えていたことです。でも、夢の中の名刺は表面は地が濃い青緑で縦型のデザインだったことは全くイメージになかったことでした。さて、どうするか・・・

「美しい意味」と物語

ここしばらく手触りや音、色、匂いといったモノの感じ方を意識してしまうことが続いています。映画の小道具のモノの色や音に至っては思い出して手触りまで想像することがあります。そもそものきっかけは2週間前の日曜日、奈良で食べたラーメンの味の感じ方です。特別に美味しかったというわけではなく、味を発見したという感覚でした。「こんな味だったのか!」と。以来、鞄や手帳の革の感触や匂い、ファイロファックスのシステム手帳の少しざらついたリフィル、ブルーの明暗の濃淡が絶妙なパイロットの色雫シリーズの朝顔、映画「アンタッチャブル」でケビン・コスナーが革の鞄から取り出すマニラフォルダのしなやかな質感、等々、素敵なモノはたくさんあることを再発見しています。そして、その一つ一つの物語を考えます。今ある姿に至るまでにかかわった人たちに思いを馳せてしまいます。全てに意味がある。「あなたの周囲の世界には、こんなに美しい意味があるということを伝えたい。」とは自閉症の人たちへのエリック・ショプラーの言葉です。(20170727)

谷崎潤一郎原作「秘密」を聴く

今朝、出勤する車の中でNHKラジオ第1で谷崎潤一郎の「秘密」を聴いて思わず深く惹かれました。寺で隠遁生活をするうちに女装して出歩き、女と逢瀬を繰り返す、等々、どうころんでも縁がなさそうな物語の展開ですが、そういう世界を垣間見たいという衝動もまたあることがわかります。文学が文学たる所以は人の詩と真実を描くところにあると考えます。それが目を背けたくなるような内容であっても人が人である以上、否定することなどできない。どす黒い淵なるものも人が人たる所以だと思う。「秘密」を文字で読むと私には耽美的などとは思えないのですが、今日のラジオ文芸館では怪しくも美しく私の耳に届きました。

一昨日は仕事の帰りに地元のスタバで閉店前までThinkPadのモニタとにらめっこをしていました。8人掛けの大きなテーブルが私のお気に入りです。ここなら何時間でも仕事・・・ができそうです。その日は来年の仕事の準備でシラバスに頭をひねっていました。説明書に沿っての記述ですが、全体を見ると何かの取説のように思われて仕方がありません。「知」とはこんなものではない。コンテンツで質を高めたいと思っています。

昨日は勤務校の2学期の終業式でした。本校と分校、病院内教室と病室、大学病院内教室と病室で計7回の終業式を執り行いました。年末年始を病院で過ごす子どもも少なくありません。新しい年が子どもたちにとってよい一年となることを心から願っています。

冬の装い

今日明日と下関です。気象情報で雪マークがあったので何を着て行こうかと前夜になってから取っ替え引っ替えしていました。今年は何を着ても暖かくないように思うからです。毎日、本校と分校との間、徒歩5分足らずですが、どのコートを着て行っても寒くてマフラーも巻くようになりました。そして、昨夜気づいたのは、今年はダウンをまだ出していなかったということです。ダウンを着ると部屋では暑いくらいの効果があって即決でした。ダウンといっても山用ではないのでほどほどの保温効果です。この冬は“動きの少ないアウトドア活動用のジャケット“(バードウォッチング用等々)が必要になるかもしれません。寒い冬はおしゃれの幅が広がります。

下関には京都経由で来ました。京都は薄日で風はなく、おだやかな大気の下にありました。新下関で降り立ったときはすでに暗く、冷たい雨が降っていました。筑波で机を並べた友人たちと年に1度の“同窓会”です。

先週末は町内一斉清掃でした。風はありませんでしたが薄曇りで冷えました。その冷たい空気と落ち葉の香りの中での作業は心地よいものでした。私は冬場の外作業でいつも着ている裏がボアのハーフサイズのフィールドコートにジーンズ、ティンバーランドのミッドブーツという格好で、いつもとちがう心持ちで少しばかりわくわくしていました。ファッションではなく作業第一の出で立ちですが、日常から解放されたような気分でした。年末年始に時間があったら近くの雑木林を歩きたいと思っています。

時間について考える

先週末、カズオ・イシグロ原作の映画「日の名残り」を観たくなってDVDの再生をしたとたん、冒頭からその深い色合いに引き込まれてしまいました。その日はまたNHKで「カズオ・イシグロを探して」の再放送がありました。2011年放送の番組で私も観ましたがほとんど忘れてしまっていました。今あらためて観ると大切なメッセージがぎっしり詰まっていてこちらにも引き込まれてしまいました。それはさておき、ふと、この6年間に私は何をしてきたのだろうと考えてしまいました。

彼は5年に1作のペースで小説を発表しているとのことです。5年をかけて1つの作品を書く。もちろん、1つの作品に構想から出版まで10年以上かけることもあるので単に5年をかけてということではありません。このペースは、しかし、英語圏ゆえに可能といえるでしょうか。英語で書かれた作品はそのまま英語圏の国や地域、英語を解する大勢の人々に翻訳せずに提供が可能となり、著作権料もそれなりとなって5年という執筆期間も可能となるというわけです。この点で日本語は不利となります。日本語で書く作家は薄利多作を強いられているといっても過言ではないでしょう。

5年という年月を長いと考えるか、短いと考えるか。ここ10年、1年毎の結果を追って仕事をしてきたので5年という年月は未知の世界ですが、それだけに次の5年、10年は未知の世界に飛び込むことになるので新年度を待ち遠しく思っています。

日頃、なんとなく合う合わないと感じるとき、その対象が人のとき、その人と自分がいるそれぞれの時間の流れやそのスピードが違うのではないかと考えてしまいます。時間の伸び縮みは人が感じる以上、現実にあるのではないかと思います。だから何がどうということではなく、自分の時間の感じ方でその人らしさが具現化されると考えます。自分らしさは自分の時間の感じ方を獲得したとき自分のものとなる。そう思います。このことについてはもっと精緻な論理構築が必要ですが、それこそその時間が今はありません。

ターミナルのピアノとベルリンフィル

昨夜、ふと目覚めて録画した番組を2本観ました。ひとつはNHK「「地球リアル「空港ピアノ~イタリア・シチリア島~」、もうひとつはNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀「バイオリニスト・樫本大進」」です。

「空港ピアノ」はシカゴ駅のピアノと共通したコンセプトがあるように思いました。空港と駅と場面はちがいますがどちらもターミナルで大勢の人々がそれぞれの目的や物語で行き来します。そこにグランドピアノが置かれていたら・・・ふと弾いてみたくなります。A Magical Piano At A Chicago Train Station・・・こちらはいたずらピアノですがなんて楽しいのだろう! そして、なぜこんなにも心を打つのだろう。距離目的はちがってもその場その時に居合わせた人たちをピアノがつなげる。その時間はわずかですがまるで湧き出る清水がわずかな傾斜でも流れるようにピアノの音色が人々の心のドアをそっと開ける。決して深くは入ってこない。でも、きっと、その刹那の非日常が心を潤すのだ。

ベルリンフィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスター、樫本大進のヴァイオリンはすごかった。30歳でコンマスになって8年目、堂々たるものだ。ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界」第4楽章で彼が本番直前にボウイングをアップからダウンに変更した三連符が続くフレーズは私もアップから入ったように覚えています。ダウンから入るとどう変わるのか、テレビの映像と音からはわかりませんでしたが、彼や団員のダイナミックな弾きぶりを見ていると、ボウイングによる物理的な効果を超えて音楽の姿そのものに変化を与えるのかもしれないと思いました。それを可能にしているのは彼の迷いのない弾きぶりとどこまでも力強い音だと思いました。あと、蛇足ながら、彼の日本的な心遣いも功を奏しているように感じたのは私だけではないでしょう。

「愛と同じくらい孤独」

フランソワーズ・サガンの「空想の」インタビューの本です。文庫本は持っていましたが、先週、古書店で単行本を見つけて買い求めました。私はサガンの愛読者でもなくこの本を隅から隅まで読み込んだわけでもありませんがこの本の一節には前々から惹かれます。

「毎週金曜日の朝七時のミサに行く途中で夜遊びの人たち、ベリ街とポンチュ街の飲みさわぐ人たちに出会うわけです。皆ごみ箱の上に半分のっかっていて、シャンペンの壜を抱えてタキシードを着ていて、スコット・フィッツジェラルド風で、わたしは 《ああ、この人たちは皆わたしよりも楽しい思いをしているわ!》 と思ったものです。彼らは大声で笑っていて、翌日の計画、競馬などについて話しているのに、わたしはこれから四時間の宗教の授業に出るところでしたから! 《不公平だわ》 と思っていました。」(朝吹由紀子訳)

中学校から帰る渡し船で工場の仕事から帰る人たちとよく乗り合わせました。彼らは自転車とともに乗り込むと船の縁に腰掛けて煙草をゆっくりくゆらせながら遠くを眺めていました。一日の疲れを癒やしているようでした。私はというとぎこちない年頃でいくつかの違和感を抱えながらその光景をどこかうらやましく思いながら見ていました。小さな子どものように真っ直ぐ見ていました。

今日の夕暮れは横に細長く濃い金色に輝き、反対側の空には白く丸い月が浮かんでいました。輝きを増す月に向かってステップワゴンを走らせました。とてもきれいな月でした。