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襲うモーツァルト

「人生を愉しむための大人のオペラ講座」で私はモーツァルトに襲われました。モーツァルトの音楽に、カール・ベーム指揮のウィーンフィルに。そのことを知人へのメールでふれたらずいぶんウケたようです。「モーツァルトが襲う」という言い回しはハイデッガーの『存在と時間』を援用した丹木博一著『いのちの生成とケアリング ケアのケアを考える』(ナカニシヤ出版 2016)で知ってなぜか腑に落ちていました。原典はドイツ語なのでまずドイツ語で知ることが大事なのですが、とりあえず手持ちの『存在と時間』から該当する部分の日本語訳を並べてみました。

情態性は反省されていないどころか、配慮的に気づかわれる「世界」に無反省に身をまかせ、没頭しているときにかぎって現存在を襲う。気分とは襲うものなのだ。気分は「外部」からくるものでも「内部」からくるものでもない。世界の内に存在する様式として、世界内存在そのものから立ちのぼってくる。(ハイデガー著、熊野純彦訳『存在と時間(二)』 岩波文庫)

情状性は、配慮的に気遣われた「世界」に無反省に身をまかせ引き渡されているときにこそ、現存在を襲う。気分は襲うのである。気分は、「外」から来るのでもなければ、「内」から来るのでもなく、世界内存在という在り方として、世界内存在自身からきざしてくる。(ハイデガー著、原佑責任編集『存在と時間』 中央公論社 世界の名著74 1980)

心境はことさら反省的なものであるどころか、それはむしろ、配慮された世界へ「無反省」にかかりきっているときにこそ、にわかに現存在を襲ってくる。しかり、気分は襲ってくるものである。それは「外部」から来るものでも「内面」からくるものでもなく、世界=内=存在のありさまとして、世界=内=存在そのものから立ちこめてくる。(ハイデッガー著、細谷貞雄訳『存在と時間』 ちくま学芸文庫 1963理想社版 ハイデッガー選書16巻基)

気分はまったく日常的なもので常時ついて回ります。しかも、何の前触れもなく突然変わったりどこかに飛んで行ったりします。モーツァルトを聴いて私は京都でモーツァルトをよく聴いていた学生のときの「あの感覚」が突然甦ったかのような感覚がどこかから湧いてくるように身体を包んで染み渡ったのです。「気分は襲う」というフレーズの他にどんな表現があるというのだろう。まずもって天衣無縫といわれるモーツァルトの音楽ゆえの魔力があり、その魔力に取り憑かれた私の学生時代があり、半世紀を経た先日、突然、そう、襲ってきたのです。気分について3者の訳は「立ちのぼってくる」「きざしてくる」「立ちこめてくる」とちがいますが、不思議にどの訳もしっくりきます。ほんとに不思議な記述だと思います。ただ、他の部分はなかなか理解が難しい。ここだけ読んでもわからない。

Windows11+XGworks4

YAMAHAの音源モジュールMU500を購入したのが2001年の秋、同梱のXGworks4も同時に使い始めました。その後、Windowsを買い替える度に、そして、Windows OSのバージョンアップの度にXGworksとMU500が動くかどうか確かめてきました。Mac+Parallels Desktop+Windows OSでも、また、Mac+Boot Camp+Windows OSでも使ってきました。そして20年後、いよいよWindows11 PCで試すことになりました。結果、問題なく動くことがわかりました。あっけないほど簡単にインストールできました。アップデートプログラムでXGworksは4.07になりました。USBドライバはWindows10に対応するために2018年にYAMAHAがアップデートしています。メルカリやヤフオクでXG音源モジュールを見ると今でもけっこうな値段で取引きがされていることがわかりました。やはり音楽は保守的志向なのかと考えてしまいます。音の好みについての話です。以前、Rhodes Pianoが製造終了後あまりに年月が経っているので法的に電気製品として使えなくなるかもしれないというニュースを見たことがあります。Rhodes Pianoは今も使われているのでそれはクリアできたのか私の記憶違いだったかですが、音の記憶は身体に浸み込むもので「この音でなければ!」とこだわる音楽家が少なくないと思っています。「人生を愉しむための大人のオペラ講座」で聴いたカール・ベーム指揮のウィーンフィルハーモニー管弦楽団の演奏もそうでした。ウィーンフィルは決まったモデルの楽器で統一されているので尚更です。XGの音も私の身体の奥深くに浸み込んでいます。Windows11でも使えたということはこの先10年は使っていけるでしょうか。

今回、Windows11 PCにXGworksをインストールしたのは今月から使い始めたLenovo YOGA slim 750 Orchidの機動性を活かしてある曲の打込みと演奏をしたかったからです。ある曲とはホルストの「惑星」より平原綾香が歌った「ジュピター」です。知人がこの曲をテナーサックスで吹くというのでバックはシンセでやってはどうだろうということです。XGのSFっぽい音やオルガンの重低音、そして、シンセストリングスの音などを少し入れるだけでそれなりの雰囲気が出て自分が作ったとは思えないほどのインパクトがあります。こんな作業は面白くてたまらない。夢中になって没頭してしまいます。

エーデルシュタイン・タンザナイト

“Pelikan Edelstein Tanzanite”という万年筆用インクです。先日、書店の文房具売り場をのぞいたら傷んだ箱に入ったタンザナイトが2つ、値下げされて並んでいました。もちろん2つとも購入しました。早速ペリカン800のМを洗浄して試し書きをしました。ネットでは「書いた直後は紫が見えるがすぐに消えてブルーブラックになる」というレビューが複数ありますがそうした印象はちょっとありません。値下げということはかなり古いインクでそのためだろうかと思いました。かといってそもそもブルーブラックなので何ということはありません。ペンの走りはただただ滑らかです。これまで入れていたパイロットの“色雫”朝顔のさらさらとはまるでちがいます。フローが潤沢なペリカン800Mだとインクがちょっと出過ぎかという印象がありましたがそれは緩和されました。なかなか良い。インク瓶のデザインも秀逸ではないでしょうか。Edelsteinとは宝石という意味のドイツ語です。インク瓶が入っていた紙の箱もベロを引き出して瓶を取り出すという手の込んだ造りでした。50㏄が2瓶なのでけっこう長く使えると思います。この機に万年筆の出番が増えることと思います。なんともいえない満ち足りた心もちです。

人生を愉しむための大人のオペラ講座

昨夜は津久居アルスプラザのカルチャーボックス「人生を愉しむための大人のオペラ講座」に参加しました。換気がコントロールされた会場に限られた人数、そして、声楽家もマスクを着用して歌うという感染対策が取られていました。そのどれもが講座を楽しむことの大きな妨げにはならず堪能しました。

モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」が生まれた社会背景と歌詞との関連などたいへん興味深いものでした。ただ、私にとっては「モーツァルトが襲ってきた」という学生の頃のあの感覚がかなり薄められてはいましたが戻ってきました。正しくは「モーツァルトの音楽が」と言うべきですが、モーツァルトと彼の音楽との一体感はぬぐい切れないものがあります。小林英雄の『モオツァルト』の冒頭「モオツァルトは歩き方の達人であった。」とはまさに言い得て妙です。ハイデガーばりに言うと「モーツァルトの音楽が襲ってくる」のです。昨夜はオーケストラがカール・ベーム指揮のウィーンフィルで、音も録音も当然ながら当時のものだったのでこちらからのインパクトもありました。ただただ懐かしく、当時、全身全霊を傾けて聴き入った音楽、音でした。

音楽は歴史において遅れてやってくる。そう考えた一時期がありました。フランス革命前夜の「フィガロの結婚」、ロマノフ王朝末期のチャイコフスキーのバレエ音楽、等々、いわゆる社会史とはすぐには結びつかない印象があります。また、ショスタコーヴィッチの音楽は政治によってどれだけ創造性が削がれてしまったのだろうと考えることがあります。作曲家の「本意」はどれだけ作品として表現されているのか。資本主義においては売れるか売れないかによって影響を受けるのは想像に難くないしそれにまつわるエピソードが裏話として話題になる。事は音楽と政治、社会体制との関係です。「人生を愉しむための大人のオペラ講座」シリーズは全3回であと2回が予定されています。コロナが落ち着いて予定通り開催されることを切に願うばかりです。

ところで、こうしたイベントの開催にあたっては音楽はじめ文化的な様々なリソースが一定そろうことが必要条件となってきます。プロデューサー、キュレーター、講師、演奏家、MC、ディレクター、会場、等々です。昨夜の関係者は何役も担って進行していることが一目瞭然でした。「人はなぜそれをするのか」と時々思うことがあります。社会活動然り、笑える行動然りです。昨夜は地方都市ではなかなかふれる機会のない文化的なイベントでした。

交流及び共同学習について

今年度は思いがけず特別支援学校と近隣の通常の学校との学校間交流、そして、特別支援学校に在籍する子どもが居住する地域の学校に出向く居住地校交流について助言することになり、私にとっては研究の機会となりました。

私が小学校から養護学校(当時)に転任したのが1998年(平成10年)で、転任早々交流担当となって学校内外の調整や企画に当たることになりました。交流について、特別支援学校と通常の学校との“温度差”を実感しましたが、今回、交流及び共同学習にかかる論文等々を調べたところ、その教育目標が不明確だったり曖昧だったりという課題が明らかになっているという記述がありました。また、国立特別支援教育総合研究所の直近の調査研究では、全国の特別支援学校を対象としたアンケート調査結果で理念の共有がいちばんの課題であると明らかにされています。その詳細はわかりませんが、今回の助言の準備を進めるなかで、交流及び共同学習は交流は他の教育活動と比べて情報量が圧倒的に多く、理論面の研究が進んでいないのもそのためではないかと考えました。つまり、交流で子どもたちは想像をはるかに超える経験をしているわけで、それを表面的な評価のみで矮小化してはならないことを交流をいくつか参観して思い知りました。

評価という視点だけでなく、交流場面で一体何が起こっているのかという現象学的視点からも今回は考える機会となっています。交流のみならず学校では日々豊かな営みが繰り広げられていますが、その豊穣を語ったり研究したりする言語化のための言葉や概念は日頃の学校や教育実践研究の中から見出すことが難しいことがあります。交流場面を描くに際しても然りと考えます。今回の資料作成にあたり、他分野の言葉や概念を用いて交流場面の子どもたちの中で何が起こっていてそれはどういうことなのかについて言語化を試みています。とりわけ、保育・幼児教育、哲学、教育哲学の言葉や概念を援用することになりました。「自発/自発性」「子どもを“よくなろう”としている存在として信頼」「ケア/ケアリング」「個別具体的なその人を知る」「相互性/相互関係性」「夢中/没頭」「生成としての教育」などです。これらの全てを直接引用したり援用したりしているわけではありませんがこれらの言葉や概念なくして今回の準備はここまで進められなかったことは確かです。

また、「フォーマルな交流」と「インフォーマルな交流」という言葉も久しぶりに、ほんとに何年かぶりに思い出すことができました。

コロナ禍のために対面交流が困難になってオンライン交流が行われるようになりました。オンライン交流はまだまだ始まったばかりでインフラの課題もあります。対面交流と同じことはできませんが病弱教育では入院中の子どもと学校とをインターネット接続でつなぐ取り組みが10年以上も前から行われて教育的な成果を上げています。いつまでもコロナ禍が続くわけではないと思いますがオンラインの教育活用はハード、ソフトともに研究が加速的に進むことを願っています。

40日ぶりのツーリング

3連休最終日、40日ぶりにバイクで走りました。この連休は晴天で風も弱く気温もそれなりにあったので絶好のツーリング日和でした。鈴鹿方面の山は積雪があったので山行も考えましたが連休前日は冷えからくる頭痛があって断念してのソロツーリングでした。1日目と2日目は終日仕事をして3日目はリフレッシュのツーリングとしました。

エンジンは一発でかかってほっとしました。行先は昨日からパールロードの鳥羽展望台と決めていましたがあまりに久しぶりなのでバイクショップで空気圧の調整とチェーンへの給油をしてもらってから向かいました。余分なオイルを拭き取ったチェーンはとてもきれいでした。ウエアは上下とも厳寒期用ではなく秋冬用のものにしたので汗をかかずに快適でした。バイクに乗れるだけで幸せな気分だったので交通の流れに乗って走りました。ただ、クラッチレバーを操作する左手と左腕は筋を傷めているのかずっと痛みがありました。

鳥羽展望台は雲一つない晴天で風はやや冷たいものの気持ちの良いものでした。コロナの感染が急拡大しているためか車もバイクも少な目と感じました。それでもバイクは個性豊かなモデルをたくさん見ることができて堪能しました。比較的年齢層が高いライダーが多いのも頼もしく思いました。そんな一人、私よりちょっと年齢が高めの上下とも革で決めた男性がYAMAHA SRX6のエンジンをかけてキャブレターを調整している光景は絵になっていました。

帰路は高速も考えましたが第二伊勢道路と南勢バイパスを通って帰ってきました。途中、松阪港に寄って記念にと海をバックにバイクの写真を撮りました。

今日の走行距離は150キロ余でしたが帰宅してバイクから降りると全身が軽くなっていました。バイクに乗るとなぜ身体が軽くなるのか。四肢の動きが軽くなるのか。不思議です。前に1泊2日で信州まで往復900キロを走って帰ったときも4時間くらい休んでそのまま東京まで車で走ったことがあります。両手両足を使ってバイクを操作するのは四輪のMT車のそれと似た感じがあります。頭の芯が目覚める感じです。この身体感覚は若返らせてくれるように思います。