月別アーカイブ: 2009年2月

アイトワにて

朝、京都に向かう電車の中で、小倉山の人形工房に行こうと思いました。嵯峨嵐山駅から記憶を辿って歩いて行くと京都市営住宅が建て替わってとてもきれいになっていて、その前を抜けて小倉池への階段を上りました。10時まであと10分、アイトワはまだ門が閉まっていましたが声をかけて入れていただきました。10余年ぶりのアイトワは庭の置物が少し変わっているくらいのように思いました。ちょうど枝垂れ梅のピンクの花が満開で、ときおり鶯がお手本のような鳴き声で鳴いていました。
今日のお目当ては人形です。アトリエの2階に上がると部屋の4面に設えられたケースの中の人形たちが迎えてくれました。展示室は明るい色の壁と床、窓からもたくさんの光が入っていました。展示室で人形たちと会うと写真ではわからなかったたくさんのことに気づきます。どの子もそれぞれにしっかりと眼差しを向けていました。私は人形を見ているのですが、人形たちの眼差しの行く先も追って見ようとしてしまいます。ところが、人形を見ているはずの自分がいつの間にかその子たちの眼差しの空間にいるのです。そこは非日常の空間であり、そこにいる人は感性の感度が一気に上がるように思いました。大切なことは何かを教えてくれる空間です。いつしか私はここしばらくの疲れが消えてしまっていることに気づきました。これはただごとではありません。
人形工房アイトワは人形作家森小夜子さんのアトリエです。森さんの人形たちはグラスアイではなく手描きです。だからなのだろうか、ひとりひとりの意志を感じます。端整な顔立ち、気丈に結んだ口元、表情や佇まいもまっすぐでひたすらな芯の強さが伝わってきます。服は民族衣装の文脈の上にあって、長い年月の中で育まれてきた様々な文化に思いを馳せてしまいます。全身で生きる意味や命の尊さを伝えています。今日買い求めた写真集『民族の讃歌Ⅴ 森小夜子人形作品集 東方への想い』(マリア書房 2008)に森さんのサインをいただきました。京都にはそうそう度々は行けないのでこの写真集で人形たちの眼差しにふれることにしましょう。
アイトワのカフェでは紅茶とケーキのセットをいただきました。紅茶はくせがなくてどこまでもピュア、ケーキは口に入れるとほどよい粗さになって子どものように舌全体で甘さを感じたくなる美味しさでした。
午後の「小児がんゴールドリボンキャンペーン 2009 in Kyoto」は人形たちのおかげで冴え渡る頭で臨むこととなりました。たくさんの学びと気づきがあって、自分のものにするにはしばらく時間がかかります。「クールヘッドで向き合い、小さな実践をする」ことの継続が大事という「NPO法人いのちをバトンタッチする会」代表の鈴木中人さんの言葉はたいへん共感するところでした。

ソルトレイクシティのバイオリン工房

よく訪れるブログにソルトレイクシティのバイオリン工房が紹介されました。オーナーのCharles Wie Liu氏は16歳のとき北京の楽器製作技術学校でバイオリン製作を学び始め、アメリカに渡ってキャリアを積んでソルトレイクシティに工房を構えたとか。私の目が釘付けになったのはその工房の写真です。バイオリン工房はいくつか行ったことがありますがこんなに明るい工房は初めてで、バイオリン職人ならこんな工房を持ちたいと思いました。建物の外観もまるでおもちゃの家みたいです。バイオリンの過去の名器はもちろん素晴らしいのですが、今、同時代に生まれ、たくさんの人たちに奏でられる楽器もまた素晴らしい。“安もの”でも楽器は楽器、バイオリンはバイオリンです。駅や街で見かける分数バイオリンを持って歩く子どもたちはほんとに微笑ましい。バイオリンの話を始めると夜が明けてしまいそうになるくらいのたくさんの語りぐさがあってバイオリンの魅力の大きさを思います。ピアノは重工業の発達とともに性能を上げてきましたが、バイオリンは今も昔もほとんど変わることのない手作りの工程を経て作られています。昔ほどの良質の材木がないながらも今だからこそ生まれ得る音の楽器が作られています。「オールド」に対して「ニュー」と呼ばれる楽器の音の方により大きな魅力を感じます。ウィーン・フィルの音も素晴らしいけどベネズエラのオーケストラの音も同じように素晴らしい。映画「耳をすませば」のバイオリン職人を夢見る天沢聖司が羨ましい。

勉強することはたくさんある

日赤病院の耳鼻咽喉科と呼吸器外科のドクターの講演会に行ってきました。テーマはがんです。胸腔鏡手術の手技について映像を交えて説明があり、全体のイメージをつかむことができました。あと10年もすると2人に1人はがんで亡くなるほどがんは増えているとのこと。集まった人たちは自分ががんの患者という人が少なくないようで、特定のがんの治療について専門的な質問が続きました。また、ふだん聴けない最先端の研究にふれる内容もあって3時間はあっという間に過ぎました。今日は医療技術についてでしたが、来週の土曜日はがんの子どもの支援ネットワークの講演会に行く予定です。講師は大阪大学総長の鷲田清一氏で、前もって読んでおきたい本を取り寄せました。『「聴く」ことの力 ー 臨床哲学試論』(阪急コミュニケーションズ 1999)です。哲学の本ですが、1999年の初版以来昨年末で19刷です。随所に挿入された植田正治のモノクロの写真が不思議な調和感を醸し出しています。同梱で届いた本はミルトン・メイヤロフ著 田村真・向野宣之訳『ケアの本質 生きることの意味』(ゆみる出版 1987)です。こちらも初版以来昨年までで16刷の増刷です。大学でテキストとして使っているのかも知れませんが、このような硬派な本が長期にわたって売れ続けているのは心強い。私の方はやっとこの本にたどり着いたとはなんとも心もとない。そうそう、来週の講演会は京都なので早めに行って街を歩きたいと思っています。
先日、洗面所でカメムシを踏みつぶしたのだろうか、そんな異臭がしてしばらく臭いの元を探っていました。そして、やっと突き止めた原因は石鹸でした。いつもとちがう石鹸を買って、使うときはハーブ系の香りなのですが、閉め切った洗面所では香りが強過ぎるのかカメムシの異臭と感じました。ところが、今ではその臭いも香りと思えるほどにお気に入りとなってしまいました。ハーブを活用してきた人間の感覚とは不思議なものです。

2月のポコ・ア・ポコ

2月のポコ・ア・ポコは12家族のみなさんに来ていただきました。2か月ぶりなので身長がぐっと伸びたように感じた子、顔が児童の凛々しさを増した子、待つことができるようになった子、成長を目の当たりにするひとときでした。今日は遠方から来ていただいたご家族が何組かみえました。お子さんはとても楽しそうにしてみえたのでほっとしました。県内の各地域でミュージック・ケアの定期的なセッションの場を設けることができればと、これは私の努めですね。
昨夜、NHK-ETVでグスターボ・ドゥダメル指揮のシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ演奏会の放送があって録画をしました。今朝はそれを聴きながら用事を片づけていたのですが、たしかに「ベネズエラの奇跡」といわれるだけのことはありました。もっとも「奇跡」とは失礼ですが。チャイコフスキーの交響曲第5番は自分も学生オーケストラで弾いたことがあるのでリズムやアーティキュレーションなどを思い出しながら聴いていました。今までに聴いたことがないチャイコフスキーでした。しかし、それは斬新とかそういう言葉では表せない演奏で、音そのものから新しく、また、なんと自在にチャイコフスキーを奏でているのだろうと、それは驚きました。まず、音です。弦も管も西洋音楽の歴史から解き放たれたような軽やかさと濃さ、この相反するような言葉で形容したくなる不思議な厚みがありました。一昔前の第三世界の音楽がやはり西洋音楽への指向から抜け出せなかったこと、それは決して批判されるものではないのですが、文字通り自分たちの音楽にはなかなか到達できない一面が感じられたことを思うと、ベネズエラのチャイコフスキーは、初めに自分たちの音楽ありきというスタンスで奏でているところに感動するのです。アンコールの小品でバイオリンなどを持って立って踊るようにしながら奏する姿も自然な印象です。こんな奏で方があったのかという感動です。ベネズエラの「エル・システマ」は今後も機会があったら聴いていきたいと思いました。昨夜の番組は続いてドゥダメルがベルリンフィルを振った「ワルトビューネ・コンサート2008」でした。音は西欧の音ですが、音楽はドゥダメルの音楽でした。聴き応えがありました。
市内の書店で硬派の写真集が平積みになっていて手に取りました。立岡秀之の『カンボジア』(幻冬舎ルネッサンス 2008)です。彼は私が住む松阪市出身とのこと。それでこの平積みとわかりました。帯に土門拳賞受賞と帯にありました。中を見て納得です。カンボジアの人たちが何の構えも感じさせない日常のそのままの姿でそこにありました。ほんとに何でもない毎日の写真です。でも、写真を志す人ならそうした写真を撮ることの難しさは身にしみています。こうした写真を撮るフォトグラファーは「被写体」の人たちと心と心をつなぐパイプを瞬時に結んでしまう才があります。愛情や尊厳を持ってシャッターを押す、という表現では足りないでしょう。飛躍するようですが、臨床という言葉がふさわしいのかも知れません。この写真集はたいへん見応えがあります。ちなみにカメラはNIKON F4のようです。フィルム、ですね。でも、財布の事情から買った本は松田敏美の『モノクロームの旅路』(えい出版社 2007)でした。蛍光灯が明々と照らす書店ではいささか存在感が薄れてしまうような陰翳をたたえた写真とフォトグラファーの手記です。黄昏時の写真を撮り続けるひたすらな営みにモノクロームのフィルムは相応の淡いデリケートな表現で応える。アート・フォトの領域です。
外付けHDDを調達しました。土日各5台の数量限定の最後の1台でした。真ん中を絞った曲線の縦型デザインはMacとの調和でちょっとどうかと思いましたが、1TBという大容量と、数量限定で1G=11.8円というコストパフォーマンスにぐらっときて決めました。ネットでもほぼ最安値で、後々のメンテナンスを考えると地元店の5年間修理保証はありがたい。品番はBUFFALO HD-CE1.0TU2で、そのデザインは薄型テレビのHDDとしての設置も想定してのことのようです。ファンレスの静音がいい。MacOSジャーナリングでフォーマットしてMac専用にしました。接続はUSB2.0でSCSI+αの高速転送です。映像信号もS-VHSのコードでHDDレコーダーから直接キャプチャに使うデジタルビデオカメラにつないで、さて、HDDからビデオを取り込もうとしたら、なんと、IEEE1394の接続コードは職場のロッカーに置きっぱなしでした。またの機会、いつになるのだろう。

能管を聴く

今週は能楽囃子を聴く機会がありました。能は小さな頃から身近にあったのでとくに珍しいものではないのですが、今回は演奏のレベルが群を抜いて高く、ただただ圧倒されました。音の決まり方というのだろうか、囃子=音楽の構造が目に見えるように明確でエネルギーに満ちていました。そして、合わせることの緊迫感はジャズと共通するところがありました。まさにセッションです。また、五人囃子と舞の姿形も美しいと思いました。姿形が美しいものは機能も優れているものだ。生みだされる音楽も音楽としての機能を高いレベルで備えている。こうした優れた演奏は聴く人の覚醒レベルを一気に引き上げてしまう。五人囃子と謡の中では、私はやはり笛に惹かれます。音高を自在に渡っていくような旋律のゆれが戦慄や呼吸のゆれを誘う。音楽に弄ばれているような感覚になります。西洋の音楽とはちがうエネルギーを感じます。龍笛と能管、それぞれにいいものですが、今回は能管の奏での激しさに魅了されました。奏者と私との間の空気がダイナミックに動いて目に見えるようでした。
カレーやみそ汁を作っていてもリビングのライトを消してジャズを流すとジャズ喫茶かカフェのカウンターにいる気分になりますが、昨夜はカレーに「篤姫」の音楽だったのでまたちがう空間でした。音楽にもドラマにもすっかり魅了されてしまった「篤姫」です。ところが、先日、『本』2月号(講談社)に掲載の町田明広氏の「『篤姫』に描かれなかった幕末史」を読んでいて驚くというかおかしくなったことがあります。NHKの大河ドラマ「篤姫」の「功罪」についてのところです。「一方の『罪』は、そのストーリーによって『歴史的事実』が書き換えられてしまったことである。まさか、篤姫と小松が本当に幼馴染みであったと信じている読者はいないと考えたいが、そのほかにも困った点は数多く存在する。たとえば、小松帯刀を世に送り出してくれたことは、賞賛に値する大事件であったが、倒幕に反対する平和主義者という設定はいかがか。また、島津久光の扱いにも、個人的には不満が残る。登場シーンでは毎回のように力んでおり、保守的な側面ばかりが強調され、残念無念である。本当の久光は、古今稀に見る政治家であり、卓越した政略・眼識の持ち主である。久光なくしては、幕末史は回天せず、西郷・大久保も歴史に名を刻めていなかったはずなのだ。」私はその「まさか」で、篤姫と小松帯刀はほんとに幼馴染みだと信じていました。さすがに幕末に江戸城で碁を打つシーンはフィクションだと薄々感じていましたが、そうは思いながらも食い入るように見つめる自分がいて、それもいいではないかと思っていました。ところがである。篤姫と小松帯刀が幼馴染みということそのものがフィクションだというのです。これにはおかしくなりました。あそこまで真剣に観ていた自分は何だったのかと。でも、それでもなお、それでいいと思うのです。それくらい私にとっては感動するドラマと音楽でした。篤姫が自分で確かめないと気がすまない人として描かれていたところ、そして、篤姫は自分の思うことを信じるところにたいへん共感しました。逆に、ドラマの島津久光はいささか役不足で不自然に思っていたので町田氏の一文で納得しました。それにしても筆者の歴史学者、町田明広氏は小学生の頃にNHKの大河ドラマにのめり込んだことが後々大学で学び直すことにつながったとか。『本』に掲載のエッセイは実におもしろい。
明日はポコ・ア・ポコです。午前中に新しいシャボン玉を試したりバチの毛糸のほつれを直したりと、これは楽しいひとときとなるでしょう。

コンピュータ談義

自宅のハードディスクビデオレコーダーでHDD→DVDのダビングができなくなってしまい、HDDに録りためた番組をどうやってDVDにしようかといろいろ考えていました。アナログ出力でパソコンにデータを移してDVDに焼くという手順になるわけですが、さて、ビデオキャプチャをどうするか、パソコンをどうするかです。ビデオキャプチャは5年前に購入したIO DATAのGV-MVP/IDVがあるのですがIEEE1394が使えるWindowsのパソコンがありません。MacBook ProのWindows XPはIEEE1394が使えませんでした。今はUSB 2.0の時代ですね。さて、どうしたものか。ビデオキャプチャをあらたに調達することになるのか…。ふと思いついたのはデジタルビデオカメラをビデオキャプチャとして使うというアイデアでした。今日、試したらうまくいきました。パソコンはこのMacBook Proです。外付けのHDDを使いたかったのですが、今ある外付けのHDDはWindowsと共用するためにFAT32にフォーマットがしてあって、これではiMovieのイベントフォルダとして使えないとのこと。そもそもiMovieは認識すらしません。対応するMacOSX拡張フォーマットにするとデータが消えてしまいます。今日はテストなのでMacBook ProのHDDを使ってみました。iMovieは私のビデオ編集には十分過ぎる機能があって申し分ないのですが、やはり、HDDを酷使するので気が気ではありませんでした。大容量の外付けHDDを調達することにしましょう。ビデオキャプチャとして使ったデジタルビデオカメラはSONYのDCR-TRV17です。これは2002年の発売ですからもう8年も前のモデルですがビデオキャプチャとしてはなかなかの性能といえます。それにしてもMacはとりあえずやりたいことができるソフトが一通りプレインスールされていて、しかもどれもが洗練されていて、当然ながらMacとは相性を超えて親和性が高いので安定していてかなり使えます。
そういえばハードディスクレコーダーからコードを出してHDDを交換式に改造するという荒技をあるブログで見たことがあります。HITACHIの録画機能付きのテレビはHDDの交換ができるモデルがあるのでそれもひとつのアイデアかと思いました。こちらはオーディオ専用のYAMAHA CDR-HD 1500です。そのブログにHDDを交換すると音がちがうとあって驚きました。HDDにアナログ信号として記録されるのだろうか? 例えば、iPodのHDDを交換したら音質が変わった、というようなことが起こるということです。HDDからCD-Rに焼くと音もちがうことになります。FMのエアチェックをHDDにアナログ信号として記録するから音もちがってくるのだろうか。これは自分の耳で確かめないと信じられない。HDDによって音がちがうというのはHDDの配線や基盤などのパーツの材質や品質のちがいによるものだと私は思うのですが。もちろん、音質という点では配線も大きなファクターです。
パソコンの周辺機器の接続では、私はUSBよりSCSIやIEEE1394の方が安心感があります。USBはCPUへの負担が大きいことがその理由です。今ではCPUの性能も格段に高くなったのでそれは杞憂に過ぎないのですが、WindowsのUSBは今でもポートで悩まされることがあるので敬遠気味です。MacのUSBは全く問題がありません。かつてのMacはプリンタまでもSCSIでつないでいたのですが、AV機器との接続を期にSCSIをばっさり捨ててFireWire=IEEE1394にシフトしました。SONYがパソコンのVAIOとデジタルビデオカメラとの接続にIEEE1394を採用したことが大きく影響しているでしょう。その頃、デジタルビデオカメラはSONYの独壇場でしたが、転送スピードとコストからして当時はIEEE1394しか選択肢がなかったのでしょう。複数の機器の接続ではUSBがハブを介するのとは対照的にIEEE1394はSCSIと同じデイジーチェーン(芋蔓式)です。私の頭ではこちらの方が考えやすい。これは感覚的な整理です。物理的な評価はまたちがうと思います。

徳永英明の「VOCALIST」

男らしさと女らしさについて云々された一時期がありました。ある時は格闘技家が試合を終わって家に帰ってひとり、ショパンをピアノで弾くのは素敵だとコメントする番組がありました。もう、10年も前のことでしょうか。今となっては何でもありです。徳永英明の「VOCALIST」はそんな今だからこそ在り得たシリーズだと、ふと思いました。このシリーズはiTunesに全て入れているし、マイベストのプレイリストも作っているほどはまっています。沢田知可子を聴き始めたのも「VOCALIST」がきっかけです。オリジナルはもちろんいいのですが、徳永英明の歌もまたいい。すごくいい。どうしてだろうか。それはきっと、男性女性という社会的性差(ジェンダー)を超えた個人としての思いを何の気兼ねなく馳せるひとときがあることを教えてくれるからではないのだろうか。男性歌手の歌を女性歌手が歌い、また、反対に女性歌手の歌を男性歌手が歌う、つまり、男の歌と女の歌が生みだされる社会的背景がありながらも歌として表現されるプロセスでそれは共感し得るところがあることを互いに知ることとなる。これはきっとすばらしいことだ。音楽に限らず、芸術が成し得ることです。

子どもはどこにいても子ども

教育をアカデミックに語る環境に身をおくようになって1年になろうとしています。午後から医療スタッフとミーティングをして高度医療の第一線を肌で感じる時間がありました。そこで教育が応えるべきこと、それは多分にパラダイムシフトへの踏み出しなくしては語れないと思っています。子どもはどこにいても子ども。子どもたちの笑顔のために尽くしたいとあらてめて思う。映画「紅の豚」の空賊マンマユート団の頭がペンキ代を払えなくてマテリアルのままの船尾を見て「志を大きく持て」と腕組みをして言うシーンをまた思い浮かべてしまう。「ぼーっと見る」「漂う」(荒瀬 2007)いつもそこから始めよう。何回でも始めよう。
一日中走り回っていた今日、昼前に出張から戻ろうとすると前の駐車場でガンメタのインプレッサが私の前をゆっくり横切って白線の中に止まりました。あれ?まさか…と思っていたらインプレッサから降りて来たのはまさかの彼でした。1世代前のスポーツワゴンWRXで、ボンネットの大きなエアインテークと40?の扁平タイヤ、4本出しのマフラー、そして、心が踊るエクゾースト。なんと楽しい車に乗り換えたのだろう。50半ばにしてこの車! ここのところの疲れが一気に吹き飛ぶひとときでした。しかし、車の話もそこそこに仕事の打ち合わせを始めて小1時間、芝のやわらかな緑が続く美術館のアプローチでいつもの熱い話となりました。教育は人だとしみじみ思いました。

『文芸春秋』で読む芥川賞

昨日の朝刊の『文藝春秋』の広告でいくつか目に留まったコンテンツがあって昨日の帰りに買い求めました。今日は午前中のうちに第140回芥川賞受賞作品、津村記久子の「ポトスライムの舟」を読みました。小説はいつしか努力をしないと読めないようになっていて、今日も少しばかり集中できない読書でしたがどうにか一気に読み終えました。途中で昼のラーメンに入れるゆで卵を弱火にかけながら、それも小説の一部のような時間でした。「派遣切り」が社会問題となって、派遣の人たちがどんな条件で働いているか、また、生活がどんなのかがメディアで伝えられるようになって、社会に存在する様々な格差の厳しさを考えるようになりました。それは私だけではないでしょう。それだけに今回の芥川賞は価値ある選びだと思います。ナガセ、ヨシカ、りつ子、そよ乃の4人の大学時代の同級生の人生が今の社会の諸相を描き出しながらナガセが主人公に設定されている文脈は現在の社会問題の核心を踏まえてのことだろう。経済危機を伝えるニュースの陰には翻弄される人たちが必ずいる。その人たちの存在を思い描くことを忘れてはならない。
『文藝春秋』は久しぶりに手にします。活字がぎっしり詰まっていて、また、それなりに多角的な視点のコンテンツで読み応えがあります。写真のページもギタリストの村治佳織や伊勢のイタリア料理店、京料理の特集などあってしばらく楽しめます。新聞もそうですが、インターネットとは情報の質と量が自ずと異なっていて私にはどちらもほしいメディアです。芥川賞受賞作品も『文藝春秋』で読むと一味ちがうように思います。
新聞といえば、今日の朝日新聞朝刊に2か月前に亡くなった加藤周一を回想するエッセイがありました。加藤周一の『羊の歌』『続・羊の歌』(岩波新書)は大学のとき読んだ本の中で最も印象に残っています。その頃は桑原武夫の『第二芸術論』を読んで血気盛んなこともあって、きっと難しい顔をしていたことでしょう。加藤周一は近年は朝日新聞の「夕陽妄語」を読むくらいになってしまいましたが、読む度に自分がとらわれている日常の様々な事々の本質が一瞬に見透かされているかのような覚醒する感覚になったものです。本を読み、考える時間がほしい。

子育て支援の環境づくり

昨日、地元の療育サークルのムーブメントの活動に行ってきました。この活動は来月で終わりますが私にとっては仕事の都合で今月が最後でした。5年間いっしょに勉強をさせていただき、私は子どもたちの歌の伴奏や動きに応じてピアノを弾くことを通して音の使い方や弾き方についてたくさんのことを学ぶ貴重な機会となりました。発語や動きを促す弾き方や動きに時間的まとまりの意味付けをする弾き方、等々、ほんとにたくさんのことを勉強しました。子どもたちもこの5年間に軽々と抱き上げていたのに私の肩くらいに身長も伸びて頼もしくなりました。ムーブメントもいろんなスタイルがあって、このサークルは動きを具体的に示しています。子どもたちはその中でもひとりひとり自分なりの捉え方で活動していることがわかります。子どもたちを未経験から経験へと導き、広がった認知と動作が子どもの中でつながっていきます。このプロセスは何度も繰り返します。そして、ある日、成長の次のステージへと進みます。そのときの子どもたちの達成感やお母さんの喜びは自分のことのようにうれしく思いました。こうした療育の場を子どもたちと家族が選ぶことができる子育て支援の環境づくりが求められます。ポコ・ア・ポコもそんな場のひとつでありたいと活動を続けていきます。