月別アーカイブ: 2019年3月

バイク談義

昨日は所用で出かけるときにバイクで行きました。週末の天気があやしくなってきて計画しているツーリングに行けなかったらバイクに乗るのはいつになるだろうと思ってのことです。天気もよく気温も高い。春秋用のジャケットとグローブ、そして厚手のジーンズというスタイルです。そのelfのジャケットは私の体にぴっちりとフィットしています。バイクに跨ると腕も細身なのでミラーで後ろが確認しやすい。走りだすと冬用のジャケットに比べて受ける風が少ないばかりか抵抗が少なくて風が滑らかに流れていく感じがしてそれがとても気持ちのいいものでした。バイクが軽く感じられるし信号待ちなどで止まると左足がべったりの足つきでした。こんなに足つきがよかったのだろうか!?と不思議に思うほどでした。

先日、大阪モーターサイクルショーでスズキのキャップを購入して早速かぶっていたら同じテーブルの私より少し若い男の人から「スズキに乗っているんですか?」と声がかかりました。それから小一時間、バイク談義となって他の話題も含めて興味深く聴かせていただきました。鈴鹿サーキットの第一コーナーで「スピード落とせ」と無線で何度も言われて何だろうと思っていたらそのまま砂利に突っ込んでマシンをダメにしてめちゃくちゃ叱られた、コースに出ると自分が今どこを走っているかわからない、コーナーが多い6キロの鈴鹿はコースを覚えるだけでもたいへんでバカは走れない、等々。私はバイクはバイクでも自転車のロードレーサーで鈴鹿サーキットのコースを走ったことがあってそれはよくわかりました。コーナーの底から見るコースは「壁」のように聳えていて、コース取りを云々するはるか前段階で迷子になっているようでした。ただ走るだけでも難しい。そのコースで自分とマシンのポテンシャルをリアルタイムで最大限コントロールするのは至難の業だ。8耐にメカニックとして参戦したこともあるというその男の人は身振り手振りもなく静かに語りました。彼のiPhoneにはかつて乗ったというマシン写真が保存してあって見せてくれました。今はスクーターを所有するのみとのことでしたが8耐は観戦されるとのことで「鈴鹿で会いましょう」と名前も連絡先もお互い聞かずに別れました。

年度末に思う

今日で今年度の非常勤講師の仕事がすべて終わりました。私は特別支援学校小学部の初任者指導と2つのクラスに補充で入りました。もしかするとここで子どもたちとこうして過ごすのは最後になるかもしれないと思うとこの1年間そこで過ごした時間が凝縮されて手を伸ばせばそこにあるような実体感が感じられました。そこ、とは記憶の中ですが不思議なくらい鮮明です。学校の先生たちはこうした経験を数えきれないほど積み重ねているのだと今更ながら気づきました。自分の経験として身体での気づきです。定年退職まで37年間教職に就いてきてこれまでそんなことはなかったのかと問われるともちろんあったわけですが、退職までの13年間は管理職や行政職だったので教育の最前線での経験からは距離がありました。それゆえかこの1年間はことさら鮮明に意識できるものであったわけです。ちがうのはこの1年間はそうした経験を意識して言語化してきたことにあります。授業について、1時間1時間の授業の中での子どもについて、その子どもと先生について、そこにいる私が知覚したことについて、ときに補充で入ったときひとりの先生として自分が知覚したことについてとにかく言語化しようとしてきました。初任者には自分の言葉で語ってもらう。そうして授業について毎回新たな言葉を発して初任者と対話すること、その積み重ねが自分の言葉で語ることができる先生を育てる。年度末の研究授業の授業案の作成はとても面白いものでした。言葉を知らなければわからないことはたくさんある。語る言葉を知らないということは世界で浮遊しているようなものだ。もちろん「語る」とは音声言語を発することに限らない。先人たちの書き物や語りの文字起こし等々にふれて「言葉を知る」「自分の言葉をもつ」「言語化する」トレーニングを積み重ねることで人は「自分の世界」と「世界の中での自分」を見いだす。これだけではないのですがこの1年間を経て「脳の再起動」ができたのではないかと思えるようになってきました。OSのバージョンアップは今後の自分の努力次第です。しなければならないことはたくさんありますが、この1年間子どもたちや学校の先生たちとともに学ぶことができたことを感謝し、子どもたちの健やかな成長を心から願うばかりです。

痕跡本

2月2日に長野県伊那市立伊那小学校の研究会に参加してから細い糸を手繰り寄せるようにして本を集めることになっています。短期間に40冊超の本が次々と届くとまるで古本屋のようで、気になるところを拾い読みしては硫酸紙(グラシン紙)を掛けるなどしています。カテゴリーは教育学、心理学、哲学、看護学で中には貴重なものも何冊かあります。貴重と思っているのは私くらいかもしれませんがまるで投機目的かと思うくらいの高値がついていることがあります。その間隙をぬってお目当ての本をほどほどの値段で買い求めるのもスリルがあって面白いものです。

そのほとんどが今では新本で出回っていない古書なので中には個人や大学図書館の蔵書印や書き込み、著者のサインがあったり、また、献呈の栞などが入っていたりとこれはこれでいろんな想像を巡らせてしまいます。時には私信が入っていて驚いたことがありました。こうした場合“現状”で販売するのが古書業界の習わしなのだろうか。私は本は売らない主義ですが貸すことがあるので気をつけないといけません。

今日は「上田薫著作集」の収録リストを作りました。収録してある本を重複して購入してしまったのでその予防策です。全集ものなので月報が入っています。著者の教えを受けた人たちが出会いなどの思い出や業績について綴っています。「上田薫著作集」では毎回4~5人、計66人が執筆しています。こうして著者を知る人たちのそれぞれのかかわりでもって語られる人物像はそれぞれの執筆者のもので、著書では知ることのできない姿がそうして鏡に映るようにして浮かび上がるのはとても興味深いものだ。上田教育学はそう遠くないうちにもっと光が当てられ研究されるときが訪れることと思います。

心躍る経験がある授業

ここしばらく確定申告の説明会のスライド資料を見ていたのですがさっぱりわからないので自分なりに国税庁などのサイトを見て申告書のフォーマットに数字を打ち込みを始めました。すると全体像がわかってきてほどなく一段落しました。パソコンの個々の処理画面が並ぶ資料は単に詳しいだけでは「木を見て森を見ない」状態に陥ってしまいます。木も森も見てふわっとしたところから意味や構造を見つけていくのはこんなことでも楽しい。それはとても感覚的だ。

確定申告の前は初任者研修で担当している特別支援学校の先生の研究授業の準備に自分がどっぷりはまっていました。指導案は授業者の意図が記述されているはずですがどこまで書き切っているといえるのか。そこで使われている言葉は授業者の言葉なのか。子どもたち一人ひとりの姿が素のまま浮かんできているだろうか。子どもが生き生きと描かれているだろうか。そもそも授業の意味について授業者は自分が納得できる言葉を持っているのだろうか。こうして書くと問い詰めているようですが授業準備はとても面白いものでした。目の前で起こっているのはどういうことなのだろう、これは何なのだろうと言葉を見つけていく作業でした。このプロセスは多分に現象学の発想が生きているように思っています。「現象記述」「現象学的還元」「想像自由変容」から「本質直観」という現象学の研究方法(吉田)のほんの真似事であったとしても一定の手応えがあったと考えています。今回のキーワードをひとつ取り上げるならそれは「心躍る」です。授業で子どもも先生も「楽しさ」を通り抜けて「心躍る」経験を生きてほしいと願いを込めました。