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萩原朔太郎「郷愁の詩人 与謝蕪村」より「詩境」の部分

この文章には「詩境」が16か所出てきます。「詩境」という言葉はその響きからも漢詩の世界を彷彿とさせますが萩原朔太郎は和歌(短歌)にも俳句にも新体詩にも通底するところとして論じています。冒頭、萩原朔太郎は次のように書いています。

「元来「詩」というものは、和歌も俳句も新体詩も、すべて皆ポエジイの本質において同じであるから、一方の詩人は必ず一方の詩を理解し得べきはずであり、原則的には「専門」ということはないはずである。」

「詩境」について調べていくうちに私もこの言葉が俳句や短歌、詩、漢詩にもかかわる概念ではないかと考えるようになってきました。備忘のためにコーパスに倣って前後をつけて抜粋して引用します。出典は青空文庫です。

「今日最近にいたって、僕は漸く芭蕉や一茶の句を理解し、その特殊な妙味や詩境に会得を持つようになったけれども、従来の僕にとって、芭蕉らの句は全く没交渉の存在であり、如何にしてもその詩趣を理解することが出来なかった。」

「そしてこの「蕪村の情操における特異性」とは、第一に先ず、彼の詩境が他の一般俳句に比して、遥かに浪漫的の青春性に富んでいるという事実である。」

「遅き日のつもりて遠き昔かな/蕪村の情緒。蕪村の詩境を単的に咏嘆していることで、特に彼の代表作と見るべきだろう。」

「蕪村の句には「さび」や「渋味」の雅趣がすくなく、かえって青春的の浪漫感に富んでいる。したがって彼の詩境は、「俳句的」であるよりもむしろ「和歌的」であり、上古奈良朝時代の万葉集や、明治以来の新しい洋風の抒情詩などと、一脈共通するところがあるのである。」

「全体に縹渺とした詩境であって、英国の詩人イエーツらが狙ったいわゆる「象徴」の詩境とも、どこか共通のものが感じられる。」

「「愁ひつつ」という言葉に、無限の詩情がふくまれている。無論現実的の憂愁ではなく、青空に漂う雲のような、または何かの旅愁のような、遠い眺望への視野を持った、心の茫漠とした愁である。そして野道の丘に咲いた、花茨の白く可憐な野生の姿が、主観の情愁に対象されてる。西洋詩に見るような詩境である。気宇が大きく、しかも無限の抒情味に溢れている。」

「すべてこうした幻想風の俳句は、芭蕉始め他の人々も所々に作っているけれども、その幻想の内容が類型的で、旧日本の伝統詩境を脱していない。」

「この句の詩境には、宇宙の恒久と不変に関して、或る感覚的な瞳を持つところの、一のメタフィジカルな凝視がある。」

「こうした詩境は、西洋の詩や近代の詩には普通であるが、昔の日本の詩歌には珍しく、特に江戸時代の文学には全くなかったところである。」

「単なる実景の写生とすれば、句の詩境が限定されて、平面的のものになってしまう。」

「前に評釈した夏の句「柚の花やゆかしき母屋の乾隅」と、本質において共通したノスタルジアであり、蕪村俳句の特色する詩境である。」

「前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨」や、この「小鳥来る」の句などは、日本の俳句の範疇している伝統的詩境、即ち俳人のいわゆる「俳味」とは別の情趣に属し、むしろ西欧詩のリリカルな詩情に類似している。」

「この句に主題されている詩境もまた、前の藪入の句と同じく、遠い昔の幼い日への、侘しく懐かしい追憶であり、母のふところを恋うる郷愁の子守唄である。」

「「侘び」とは蕪村の詩境において、寂しく霜枯れた心の底に、楽しく暖かい炉辺の家郷――母の懐袍――を恋いするこの詩情であった。」

「老の近づくことは悲しみである。だが老年にはまた、老年の幽玄な心境がある。老いて宇宙の神韻と化し、縹渺の詩境に遊ぶこともまた楽しみである。」

「である調」と「ですます調」

先週、研究の構想を「である調」から「ですます調」に書き換えることがありました。研究への協力の依頼文書に添付するものです。先方は研究職ではなさそうと思われることからやわらかな文体の方が相応しいのではないかとの判断です。そして、書き換えようとしたとき、単に文末を換えるだけではなく文中の副詞や言い回し、言葉そのものまで換えることになって興味深い作業となりました。

いわゆる博論本で「ですます調」書かれた本があります。他にはちょっとない文体です。「ですます調」だと読みやすい、つまり、理解しやすいかというとそういうことではなく、本、著者が語りかけてくるようで興味深く読みました。かくいう私もこのブログは20年以上「ですます調」を基調に書いています。「ですます調」で書くときと「である調」でかくときと何がちがうのでしょうか。私は単に印象に留まらず内容やときとして文脈が異なることもあり得ると考えています。

今年1月末にある教育実践の事後研修会の講評と助言を仰せつかって資料を用意することがありました。その過程で自分にしっくりくる体裁として、パワーポイントの資料は「である調」で書き、子どもたちの様子を現象学的に考察した文章資料は「ですます調」で書くことになりました。前者はかちっとした仕上がりで、後者は語りかけ調でソフトタッチですがわかりやすさという点では引用も含めて必ずしもそうではなかったと思っています。でも、文体で書き分けたことは今のところ間違っていなかったと思っています。「である調」では記述が難しいことが「ですます調」ではなんとか言語化できそうと思って書き綴る感じです。もちろん、現象学的分析においてもそのほとんどが「である調」で記述されているので「ですます調」はごく少数派です。

以下、関連した話題でこちらを一部書き直しての再掲です。

ハイデッガー著『存在と時間』の複数の翻訳の中には「ですます調」で訳されたものがあります。岩波文庫の「旧訳」です。「気分」についてのところは次のように訳されています。

情態性は少しも反省されていないので、むしろ情態性は現存性をばまさに、配慮された「世界」へと無反省に譲り渡し引き渡されているさなかに襲うのです。気分が襲うのです。気分は「外」からくるものでもなく、世界・内・存在の仕方として、この存在そのものから立ち昇ってくるのです。(ハイデガー著、桑木務訳『存在と時間(中)』 岩波文庫 1961)

「ですます調」もさることながら「をば」という言葉に目が点になりました。口語体というのかカジュアル調というのか、この訳を紹介したブログには「講演調」とあり、「ハイデッガーがしゃべるのである」などとありました。桑木務訳は古本しか入手できませんがしばらくその文体に浸っていきたいと思わせる魅力があります。対面で誰かに話しかけているような、対話しているような、でも、ぶつぶつと独り言を言っているようでもあります。

他の訳も見てみます。

情態性は反省されていないどころか、配慮的に気づかわれる「世界」に無反省に身をまかせ、没頭しているときにかぎって現存在を襲う。気分とは襲うものなのだ。気分は「外部」からくるものでも「内部」からくるものでもない。世界の内に存在する様式として、世界内存在そのものから立ちのぼってくる。(ハイデガー著、熊野純彦訳『存在と時間(二)』 岩波文庫)

情状性は、配慮的に気遣われた「世界」に無反省に身をまかせ引き渡されているときにこそ、現存在を襲う。気分は襲うのである。気分は、「外」から来るのでもなければ、「内」から来るのでもなく、世界内存在という在り方として、世界内存在自身からきざしてくる。(ハイデガー著、原佑責任編集『存在と時間』 中央公論社 世界の名著74 1980)

心境はことさら反省的なものであるどころか、それはむしろ、配慮された世界へ「無反省」にかかりきっているときにこそ、にわかに現存在を襲ってくる。しかり、気分は襲ってくるものである。それは「外部」から来るものでも「内面」からくるものでもなく、世界=内=存在のありさまとして、世界=内=存在そのものから立ちこめてくる。(ハイデッガー著、細谷貞雄訳『存在と時間』 ちくま学芸文庫 1963理想社版 ハイデッガー選書16巻基)

では原語はどうなっているのか。ドイツ語をドイツ語として読まなかったらハイデッガーの真意はわからないのではないでしょうか。