月別アーカイブ: 2023年8月

第九を歌うということ

先週、大阪に滞在中に勤務先近くの文化施設から主催する第九合唱団に「参加可」の連絡がメールで届きました。ふと思い立って応募したもので応募者多数のときは抽選とのことでしたが男声は足りないので経験者に呼びかけてほしいともありました。それを読んでいっしょに歌いたかった知人を思い浮かべました。

彼は私と同年齢で高校も大学も違いましたが音楽を通して事あるたびに顔を合わせて交流があり、同じ仕事に就いたこともあって研修などでいっしょになることもありました。また、市内に住んでいたので近くのスーパーで何度か偶然出会っては立ち話をしてきました。いつも笑顔で飄々として「またな」と言って別れたものです。

彼は早期退職をして小学校で音楽などの非常勤講師をしていました。彼は子どもの頃から音楽、とりわけ歌に親しみ、高校は違いましたが合唱部同士のライバルで大学は音楽大学に進みました。小学校の教員になったのも私と同じタイミングで彼も私も一時は音楽専科でした。音楽の話題が豊富な彼のブログやフェイスブック、ツィッターはよく読んで彼の博識から多くを学びました。そう、今となってはすべてが過去のものとなってしまいました。自分の病気のこと、検査や手術のことを書き込むようになり、自分のレントゲン写真までアップすることもありました。そのうちに病状が厳しくなってきたことが伝えられるようになり、昨年、闘病の末に亡くなりました。

「去る者は日日に疎し」という諺がありますが彼は違います。今回も彼といっしょに第九を歌いたかったと、そして、彼といっしょに歌っていると思って歌いたいと思います。彼のように飄々と歌いたいと思います。多くのエピソードは書けませんがその一つひとつは鮮明に記憶に残り続けます。

3年ぶりの対面の学会*東京にて

この土日は3年ぶりの対面開催の学会でした。そもそもナラティブベースが研究の根幹をなす領域の学会だったので対面冥利に尽きるものでした。グループワークにおいてはなおさらでした。倫理上の配慮があっての学会発表ですが研究手法上デリケートな一面があるのでその内容をここに書くのは憚られます。一般的な記述に留めますが、現象学的アプローチは数量ベースのデータでは埋もれてしまいかねない一人ひとりの経験を描くうえでやはり優れた手法であるとあらためて思いました。その手法で学校教育を研究の対象とするとき、それまで見えなかったものが見えてくる、言語化されてくる、浮かび上がってくるのは私も経験しているところです。数値化されたエビデンスとは正反対のアプローチとも言えますがそのプロセスや見えてきたものをていねいに、相手が欲しい言葉で伝える試みを続けていきたいと思いました。2日目最後の鼎談では具体例をあげてそれゆえの危うさがあるという厳しい指摘があり、会場の空気がさっと変わるのがわかりました。私は鼎談の最後までいられませんでしたがその後がたいへん気になりました。

会場は東京の大学で新幹線も3年ぶりでした。街を歩くのも3年ぶり。JRのエクスプレス予約を使うのも3年ぶりでした。モバイルSuicaとの連携は未設定なので改札で手続きをしながらでしたが駅に到着する時刻に目途がついてから手元のスマホ予約できるので券売機等に並ぶ必要がなくとても便利でした。しかも割引があって1往復すると年会費はすぐ取り戻せるという美味しい仕組みです。考えてみれば単純なことですがスマホが介在するこうしたシステムは至極便利でした。あちこちでこうしたデジタル化が進んでいて、帰路の恵比寿駅構内のパン屋で買い物するときに思わず現金を出したら店の人が「えっ!」という表情になってあたふたとおつりの用意をしているのがパンケース越しに見えて可笑しくなりました。

猛暑の東京は消耗しましたが学会でエネルギーをいただきました。やっと夏休みに相応しい勉強の時間が持てました。

大阪にて

所用で大阪に1泊しました。昨日は鹿児島に行く知人を送りに新大阪駅に行ったところ台風7号の影響が続いていて新大阪始発の九州新幹線さくらやみずほまでもが70分とか110分遅れとか。改札前の電光掲示板をひたすら見てホームに入るタイミングを探ることになりました。列車は順に走るので順に遅れるものと思っていましたが、電光掲示板を見ていると必ずしも時刻表の順に遅れて発車するわけではないことがわかってきました。スマホで各列車の運行状況をチェックすると乗車予定のさくらがほどなく新大阪駅に入ってくることがわかってあたふたとホームに向かいました。時刻表ではその前に発車するはずのさくらよりも早いという逆転が起こっていました。車両のやりくりからそうなることは考えればさもありなんです。1時間20分遅れのさくらに無事乗車して見送ることができました。

昨日今日とリフレッシュ休暇を取ってあるのでそのまま大阪に留まって1泊した次第です。昨日はまず期限が迫っている仕事をスタバで片づけました。明日明後日は東京なのですでにノマド気分でした。捗りました。そして、まんだらけグランドカオスに向かいました。ところがスマホのナビがかなり遠方をガイドするので調べたところ移転していることがわかりました。途中、戎橋筋の道具店や日本橋の電気街に寄ったりしてずいぶん歩きました。まんだらけはサブカルチャーの老舗ですが哲学書など人文書の古本が相場より安価に設定されいることが多く、昨日もこれまで手が出なかった本を買い求めることができました。ソール・ライター著『ソール・ライターのすべて』(青幻舎 2017)とサイモン・モリソン著、赤尾雄人監修・訳、加藤裕理訳、斎藤慶子訳『ボリショイ秘史:帝政期から現代までのロシア・バレエ』(白水社 2021)などです。前者は写真が豊富で見応えがあります。後者は帝政ロシアでなぜあのような華麗なバレエが生まれ、ロマノフ王朝末期の社会不安が募る中でチャイコフスキーがなぜあのような美しいバレエ曲を書いたのか、書けたのかという私の疑問に答えてくれそうに思っています。旅先で古本を買い求めたときの悩み、それはどうやって持ち帰るかということです。今回も然り。バックパックで来たので背負って帰ることになります。

高山で山を見る

一昨日から昨日にかけて高山に行っていました。昨年から新型コロナが落ち着いたら富士山とアルプスに登りたいとあれこれ計画してたところ私が右足首を骨折したので山を見るという計画に変更してのことです。新穂高ロープウェイの標高2000m超の西穂高口駅の屋上展望台で同行の山仲間と小一時間山を眺めていました。西穂高岳山頂付近は雲がかかっていましたが続く稜線上のジャンダルムや槍ヶ岳などははっきり見えました。

山に登ることができないのは残念でなりませんがアルプスの山々を目の当たりにするとそれだけで満たされるものがありました。山を見るというのはどういうことなのだろうか。直接山の恵みで生活しているわけではないのに山を身近に感じてじっと見つめてしまいます。頂や稜線、重なる岩、崩れた山肌、等々、様々な様相が山にはあります。山をそうして見ることでを山の姿に重ね、ときに懼れから信仰の対象とするのだろうか。昨日、アルプスの山々を見る私に登頂したいという気持ちはありませんでした。ただただ歩きたいということでした。ロープウェイで見かけた登山客の装いもいいものだと思いました。使い込まれた山道具は美しい。しっかり足を治したいと思いました。

その足ですが、今回は高山市街の散策を含めて長時間歩くのでそれ自体がちょっとしたチャレンジでした。靴はミッドカットのトレッキングシューズを履いて行きました。患部に違和感はあるものの歩くこと自体は負担ではないのですが立ち止まると足が腫れてくるような感覚があって気が気ではありませんでした。スロープや階段は昇りはスムーズですが下りで反対の足を先に下ろす恰好になると足首から甲にかけてつっぱってときに痛みがありました。それもリハビリとあちころ歩き回りました。温泉では足首を持って関節が馴染むようにいろんな方向に曲げました。そして、一日の終わり、ホテルと家に帰って足首を見ると腫れはさほどではなく一晩休ませると左右に大きなちがいがなくほっとしました。そして、やせ我慢ですが、このけがのおかげで学んだことは少なくないと思っています。いずれふり返りたいと思います。