月別アーカイブ: 2020年2月

映画音楽2題

ひとつは「戦場のピアニスト」、もうひとつは「シンドラーのリスト」です。どちらもNHKで放送がありました。どちらも第二次世界大戦下のナチスによるユダヤ人迫害を描いています。「戦場のピアニスト」は表題通り音楽も登場人物の如く物語で大きな役割を果たします。「シンドラーのリスト」は劇伴としての音楽です。

「戦場のピアニスト」は追いかけ再生を観始めたらそのまま最後まで観入ってしまいました。実話に基づく映画です。目を伏せたくなるような凄惨なシーンが続きます。隠れていたところをドイツ軍大尉に見つかり、職業を聞かれて「ピアニスト」と応えて弾くように言われて弾いたのがショパンのバラード1番でした。大尉はその演奏を聴いて彼を捕えようとしないばかりか食糧も自ら届ける。現実は小説よりも奇なりといいますがこの映画を観るとやはり音楽の力を思わずにはいられない。ただ、映画の全編にわたって音楽が流れるという作りではありません。それゆえ廃墟で弾くバラードが一層印象深く響くのかもしれませんが取り寄せたサウンドトラック盤CDの演奏はどれも惹きこまれてしまいます。コンサートで聴くショパンとはどこかちがう音楽だと思います。

「シンドラーのリスト」の音楽はイツァーク・パールマンのバイオリンが素晴らしい。作曲はジョンウィリアムズです。今回、映画を観ながら聴くとそれは終わりのない、完結しない音楽のように思いました。旋律が上行と下行を限りなく繰り返しているように聴こえます。戦争の犠牲となった人たちのやり場のない悲しみが永遠に癒されることがないように音楽もまた延々と続くのだ。サウンドトラック盤のテーマは4分10秒余りですが終わっても終わった気がしない。解決も完結もない後味が残ります。音楽の理論上、構造としては終結していますが音楽が紡ぎだした情感は終息されずにいるとでもいうべきでしょうか。このような音楽も音楽療法の場で奏されることが相応しい場面があるはずです。

近代とは何か

今頃なぜ近代かというと先日の国際障害者年連続シンポジウムの基調講演の中で近代という言葉が使われて妙に記憶に残っているからです。伏線としては小林敏明著『夏目漱石と西田幾多郎 共鳴する明治の精神』や同じく『風景の無意識 C.D.フリードリッヒ論』などがあって近代社会が人に与えた心理的身体的影響に関心が向いていたことがあります。そんな折、ちょうどここしばらく高校国語で中島敦の『山月記』や夏目漱石の『こころ』を取り上げる中で「近代知識人の苦悩」や「心身二元論」という言葉が指導書にあってここぞとばかりに近代という言葉が迫ってきました。近代とは何か、どんな時代だったのか、そのとき人はどうであったのか、今と共通することはないのか、等々、自分がいかに知らなかったかと今更ながら少しずつ調べています。そして夏目漱石全集と西田幾多郎全集もこの機会にと揃えました。現行のものはとても手が出せないので一世代前のものですが手紙や日記、講演録などにも触れることでふたりの息遣いを感じることができるのではないかと思います。

今取り寄せ中ですが、佐藤泉著『漱石 片付かない「近代」』(NHKライブラリー 2002)の説明は言い当て妙だと膝をポンと打ちたくなりました。「未完成であったり、まとまりの悪い作品を多く残した漱石の、その謎とはなんなのか? 近代国家と近代社会の成立現場を目撃し、そこを舞台に小説の文体で思想を提示し続けた漱石。時代を超えて読み継がれてきたその作品群は、大きな変動期といわれる現在、きわめて示唆的である。」上記の通り2002年、およそ20年前の言葉です。朝日新聞が「こころ」を再連載したのが2014年で反響も小さくなかったように思います。やはりその2014年当時、その時代に生きる人の状況に訴えかけるものがあるというコメントが目に付きました。100年ぶりの連載でした。その間、幾多の戦禍や高度成長、持続可能な社会を模索する時を経て今なおあらたな発見があるということは、つまり、今に至って近代は終わっていないということではないのだろうか。西田幾多郎もまた近代という時代の中で苦難の連続の人生であり、彼の哲学はその体験なくしては成りえなかったことと考えさせられます。夏目漱石や中島敦、芥川龍之介、横光利一らの作品は歴史上は近代文学とカテゴライズされますが読み続けられるべき古典としてこれからも高校の教科書に掲載され続けることを切に願うものです。

哲学という態度

時に読むのが怖くなるというかなぜ今までこの本と出会わなかったのか、なぜ知らなかったのかとページをめくることに躊躇してしまうようにして読む本があります。一昨日届いた本もまさにそうした1冊でした。でもどこからその本を知ることになったのか…思い出せないことが少なくありません。今回はフリマサイトの関連商品に入っていて目に留まりました。その本は肢体不自由の子どもと過ごした経験がある私にとってはその日々や刹那に感じていたことを紐解く考え方が示されているように思います。もっと早く知りたかったと思うのはいつものことですが2012年刊なので担任から離れていた頃ですぐには知り得なったのは致し方ないことです。重症心身障害児とされる子どもたちの教育の最前線と現象学とをつなぐまことに得がたい論考であり研究です。当然ながら発達障害の子どもの教育の考え方にも重要な示唆があります。今頃の出会いですが少しずつ核心のようなものに近づきつつあるような、そんな予感があります。現象学というキーワードから広がる世界のなんと奥深いことかと思います。次世代の先生方に伝えたいと思うのは歳のせいだろうか。でも、疎ましく思われても伝えたいと思う。

やはりネット検索していて偶然知ったことです。岩波書店のPR誌『図書』(2002年11月号)の巻頭言に教育哲学者の上田薫氏の「祖父西田幾多郎と私」を見つけました。岩波書店が5回目の西田幾多郎全集の配本を始めるに当たって依頼したものと思います。この中で氏は戦争体験が「論壇哲学」に強い違和感を覚え、アカデミズムからそれていったこと、しかし、心が哲学から離れたのではなく祖父の生き方から学びとったものは生々しく上田氏の根底にあると記しています。82歳のときの言葉です。上田薫氏は昨年11月に99歳で亡くなりました。文部科学省は現行の学習指導要領について中央教育審議会で審議するに当たって氏に意見を求めています。戦後初めて学習指導を編纂したとき手がけた氏の語りは生き証人としてNHKのウェブサイトで視聴することができます。(こちらから)哲学は学問領域のひとつですがそれは自分自身の態度でもあると私は考えています。哲学はいつもいつまでも生々しく自分の中にある。それゆえ哲学と現実の事象を絶えずつなぐエネルギーが必要であり、それが態度ということになるのであろうと考えます。上述の教育の最前線と現象学をつなぐ研究はひとりの理学療法士の日常から生まれました。「子どもの理解は認識としてではなく、子どもとかかわる行為のなかでなされる」(矢野)ことから生まれた本であると考えます。

当事者研究の文脈

先週の土曜日、国際障害者年連続シンポジウムに行ってきました。会場は立命館大学衣笠キャンパスの創思館でした。シンポジウムのテーマは「自立生活運動・オープンダイアローグ・当事者研究」で、熊谷晋一郎先生の基調講演は当事者研究についてその構造の核心を教えていただいたと思いました。キーワードは「当事者研究、当事者活動、内側のダイバーシティ、ドーナッツ、トラウマ、虐待経験、身体、物語、依存、依存症自助グループ、言いっぱなし聴きっぱなしの対話、対話概念の拡張、ライフスタイルの再構築」だったでしょうか。当事者同士の活動の行き詰まりは何も障害や病気がある人たちに限ったことではなく社会学の講義を聴いているようでもありました。「言いっぱなし聴きっぱなしの対話」の発見とそれを「対話概念の拡張」という言葉で概念化するあたりは絶妙だと思いました。そこに至るまでの内側のダイバーシティの「歪み」の存在をきちんと認めるスタンスもまた素晴らしい。言葉を発見する研究そのものだと思いました。当事者研究については本で読んだことがありますがこうして直接その場で話を聴くことでキーワードの一つでもある「身体」が納得する感覚を実感したと思っています。

先月1月12日(日)の東京大学大学院総合文化研究所・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP:The University of Tokyo Center for Philosophy)の「哲学×デザイン プロジェクト19 障壁のある人生をどのように生きるのか」のことを思い出しました。たいへんフランクで開かれた空間でした。「私、ワンオペでやってます」「だいたい6時までには終わります」「誰からしゃべってもらいますか?」というセンター長の肩ひじ張らずの語りにどのスピーカーもどうしてもアドリブが入ってしまうといったしゃべりで実に面白かった。その周りでは就学前くらいの子どもたちが走り回る。前の壁全体ががホワイトボードになっていて意見や感想を書くときには子どもたちが思いっきり落書きを始めて私はそちらの方ばかり見てしまいました。肩の力が抜けるとはこういうことかとこれも身体が納得しました。こうしたイベントは私が住む地域では知らないだけかもしれませんが開催されたという記憶がありません。そもそもイベントなのです。研修会でも研究会でもなくイベントです。当事者も研究者もいっしょに来た家族や赤ちゃんも国会議員もみんなごちゃまぜなのに、それゆえなのか、それだからこそなのか、風通しの良い開かれた空間が広がる。UTCPのウェブサイトのポリシー(例えばこちら)を読むとそれがよくわかります。自分たちで自分たちのことを決めていこうとすることはもちろん簡単ではない。でも、そうしていかなければならない場面はたくさんある。そうした場面のまさに当事者として自分がどう居るのか、未知のことだけどわくわくしてしまうのではないかと思う。

障壁のある人生をどのように生きるのか?(1) * 障壁のある人生をどのように生きるのか?(2)

アイキャッチ画像はシンポジウム当日の京都の空です。

森の教室

先週末の金曜日と土曜日は長野県伊那市の保育園と小学校2校、中学校の公開研究会に行ってきました。伊那市立伊那小学校の研究会は昨年も参加していますが前日の保育園と小学校、中学校を訪れるのは初めてでした。その中で伊那西小学校の「森の教室」はとりわけ印象深い訪問であり不思議な体験をすることになりました。

伊那西小学校は「林間」という広大な学校林があってそこでも学習が行われます。私が参観したのは総合的な学習の時間でエノキの落ち葉の下で越冬するオオムラサキの幼虫の観察でした。場所は「森の教室」です。壁は教室前方の一面だけで3方は柱だけという教室です。屋根は教室前方に向かう片流れの光を通す樹脂の波板が張ってあります。そこで7人の子どもたちが地元のチョウの研究者から探し方を教わります。先生はこれまでの学習の足取りを追って再構成し、本時の学習活動を明確にしていきます。子どもたちは興味津々でわくわくする気持ちが伝わってきましたが全体としてとてもおだやかでゆるやかに感じられました。その日は風もなく、やわらかな陽の光が冬枯れの森に降り注いでいました。そして、子どもたちがエノキの落ち葉を一枚ずつめくっていくとほんとにオオムラサキの幼虫が見つかって子どもだけでなく参観者も小さな声で歓声を上げていました。私には自分の身体も心も森との境がなくなって溶け込んでいくような不思議な体験となりました。子どもたちはその時しか体験できない珠玉のような時間を過ごしていると思いました。子どもの時にこうした自然の中で心躍る体験をすることで子どもたちが将来にわたるどれだけ大きな生きる力を自らの内に育んでいることかと考えました。しめくくりの森林ライター浜田久美子さんの講演「森の恩恵を子どもたちに」も共感するところが多々ありました。伊那市は山に囲まれた街です。雪が積もった木曽駒ケ岳の頂は白く輝き、東に望むアルプスの山並みは夕日に淡いオレンジ色に染まります。そして冬枯れの木々のなんと美しいことか。毎日の登下校や校舎の窓からこうした自然が見える中で育つ子どもたちはおとなになってから何度もその風景を思い出すことでしょう。講師の浜田久美子さんが伊那市の森に居を構えられたことについても共感するものがありました。

アイキャッチ画像は伊那の空です。