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山行とその支度

昨日は八ヶ岳に行く予定でしたが現地の天候が良くないので地元の香肌イレブンの烏岳に登ってきました。駐車場から山頂まで半分くらいは茶畑の中のアスファルト舗装の道路とコンクリート舗装の林道でしたがその林道が曲者でした。急坂で3か所ほど流れる水で苔むしているのです。登るときから下山は相当苦労することが予感どころか実感するものがありました。果たして、その坂を下るときは足を数センチずつ動かすのがやっとでほとほと疲れました。知人はここで登頂を断念した理由がわかりました。そんな下山の不安がありながらも山頂は南北に開けていて淹れたてのコーヒーをいただきながらしばしその爽快感に浸りました。

私が行く山は技術度も体力度も高くはありませんがその支度は私なりにあれこれ考えてそれもまた山行の楽しみです。昨日は今回の山行には使わないザックを丸洗いしました。5月に白駒の池の遊歩道で残雪に足を取られて転倒して骨折したときに背負っていたオスプレーのケストレル38です。色は赤で見た目は底に土が薄っすらと付いているくらいでしたがバスタブに15㎝くらい湯を入れて中性洗剤を少し垂らして浸けてもみ洗いをしていくと目に見えるゴミが無数というくらい出て湯は茶色になっていきました。シャワーですすぎをすると最後の最後に5㎝くらいのY字形の木の枝が出てきたのは驚きました。どこに潜んでいたのだろうと。朝洗ってサンルームに干しておくと昨日のうちに乾きました。ザックのファスナーは使っているうちにだんだん動きづらくなってくるものですが丸洗いの後はスムーズに動きました。ザックは1回の山行で汗と泥などですぐ汚れますが度々洗ってあげようと思いました。

また昨日は下山後に香肌イレブンの地元の温泉にコロナ前以来久しぶりに入ってきました。露天風呂一択でした。露天風呂のすぐ前の木々がずいぶん成長していて川の反対側の山の稜線が見づらくなっていました。湯はそう熱くはなく時々上半身だけ湯から出るように座りながらずいぶん長く入っていました。次第に灰色の雲が流れてきて雨が降り出すとなんだかわくわくしてきました。顔に冷たい雨粒があたることで今その時生きていることがストレートに嬉しく思われてきました。雲のまだら模様を見上げて湯に浸かっていると雨が止んで日差しが差し込んできました。雲が流れて青空も見えてきました。「エネルギーをためる」という表現はこんなとき当てはまるのだろうと思いました。

翌日の今日の朝、右足首は腫れも痛みもなくほっとしました。

5か月ぶりの山行

先週末、近くの堀坂山(757m)に登りました。468mの堀坂峠からのピストンなので大したことはないのですが5月4日に右足首を骨折してから約5か月ぶりとなります。右足首の違和感は残りますが足首をサポートするミッドカットやハイカットのトレッキングシューズだとその違和感をあまり意識することなく歩くことができます。登山も然りでした。登山には欠かせないCANON EOS M5で写真を撮りながらの登攀なのでペースはゆったりで身体に無理はありません。新調したトレッキングポールもやや重いもののカーボンのような適度の弾性があって余分な振動はないという快適なもので姿勢のバランスを取るのに役立ちました。足首の痛みは全くなく、違和感も時々の小さなものでした。伊勢平野と伊勢湾を見渡す頂上の展望にしばらく見入りました。新型コロナには気をつけなければなりませんがアルプス方面への遠征も計画したいと考えています。

5か月ぶりにフル装備を纏っての感想はハイカットの登山靴はじめ備えあれば患いなしでした。前日から持ち物を一つひとつチェックし始めると一気に登山モードとなりました。晴天とわかっていてもゴアテックスのレインウエアを持ち、午前中のみの活動とわかっていてもヘッドライトを持つ。薄手ですが防寒着を持って水も多めに持つ。そしてリュックのストラップを順に締めていくと気持ちが引き締まる。それゆえにその緊張感が緩んでチェーンスパイクを外した5月の山行が悔やまれます。

第九を歌うということ

先週、大阪に滞在中に勤務先近くの文化施設から主催する第九合唱団に「参加可」の連絡がメールで届きました。ふと思い立って応募したもので応募者多数のときは抽選とのことでしたが男声は足りないので経験者に呼びかけてほしいともありました。それを読んでいっしょに歌いたかった知人を思い浮かべました。

彼は私と同年齢で高校も大学も違いましたが音楽を通して事あるたびに顔を合わせて交流があり、同じ仕事に就いたこともあって研修などでいっしょになることもありました。また、市内に住んでいたので近くのスーパーで何度か偶然出会っては立ち話をしてきました。いつも笑顔で飄々として「またな」と言って別れたものです。

彼は早期退職をして小学校で音楽などの非常勤講師をしていました。彼は子どもの頃から音楽、とりわけ歌に親しみ、高校は違いましたが合唱部同士のライバルで大学は音楽大学に進みました。小学校の教員になったのも私と同じタイミングで彼も私も一時は音楽専科でした。音楽の話題が豊富な彼のブログやフェイスブック、ツィッターはよく読んで彼の博識から多くを学びました。そう、今となってはすべてが過去のものとなってしまいました。自分の病気のこと、検査や手術のことを書き込むようになり、自分のレントゲン写真までアップすることもありました。そのうちに病状が厳しくなってきたことが伝えられるようになり、昨年、闘病の末に亡くなりました。

「去る者は日日に疎し」という諺がありますが彼は違います。今回も彼といっしょに第九を歌いたかったと、そして、彼といっしょに歌っていると思って歌いたいと思います。彼のように飄々と歌いたいと思います。多くのエピソードは書けませんがその一つひとつは鮮明に記憶に残り続けます。

3年ぶりの対面の学会*東京にて

この土日は3年ぶりの対面開催の学会でした。そもそもナラティブベースが研究の根幹をなす領域の学会だったので対面冥利に尽きるものでした。グループワークにおいてはなおさらでした。倫理上の配慮があっての学会発表ですが研究手法上デリケートな一面があるのでその内容をここに書くのは憚られます。一般的な記述に留めますが、現象学的アプローチは数量ベースのデータでは埋もれてしまいかねない一人ひとりの経験を描くうえでやはり優れた手法であるとあらためて思いました。その手法で学校教育を研究の対象とするとき、それまで見えなかったものが見えてくる、言語化されてくる、浮かび上がってくるのは私も経験しているところです。数値化されたエビデンスとは正反対のアプローチとも言えますがそのプロセスや見えてきたものをていねいに、相手が欲しい言葉で伝える試みを続けていきたいと思いました。2日目最後の鼎談では具体例をあげてそれゆえの危うさがあるという厳しい指摘があり、会場の空気がさっと変わるのがわかりました。私は鼎談の最後までいられませんでしたがその後がたいへん気になりました。

会場は東京の大学で新幹線も3年ぶりでした。街を歩くのも3年ぶり。JRのエクスプレス予約を使うのも3年ぶりでした。モバイルSuicaとの連携は未設定なので改札で手続きをしながらでしたが駅に到着する時刻に目途がついてから手元のスマホ予約できるので券売機等に並ぶ必要がなくとても便利でした。しかも割引があって1往復すると年会費はすぐ取り戻せるという美味しい仕組みです。考えてみれば単純なことですがスマホが介在するこうしたシステムは至極便利でした。あちこちでこうしたデジタル化が進んでいて、帰路の恵比寿駅構内のパン屋で買い物するときに思わず現金を出したら店の人が「えっ!」という表情になってあたふたとおつりの用意をしているのがパンケース越しに見えて可笑しくなりました。

猛暑の東京は消耗しましたが学会でエネルギーをいただきました。やっと夏休みに相応しい勉強の時間が持てました。

大阪にて

所用で大阪に1泊しました。昨日は鹿児島に行く知人を送りに新大阪駅に行ったところ台風7号の影響が続いていて新大阪始発の九州新幹線さくらやみずほまでもが70分とか110分遅れとか。改札前の電光掲示板をひたすら見てホームに入るタイミングを探ることになりました。列車は順に走るので順に遅れるものと思っていましたが、電光掲示板を見ていると必ずしも時刻表の順に遅れて発車するわけではないことがわかってきました。スマホで各列車の運行状況をチェックすると乗車予定のさくらがほどなく新大阪駅に入ってくることがわかってあたふたとホームに向かいました。時刻表ではその前に発車するはずのさくらよりも早いという逆転が起こっていました。車両のやりくりからそうなることは考えればさもありなんです。1時間20分遅れのさくらに無事乗車して見送ることができました。

昨日今日とリフレッシュ休暇を取ってあるのでそのまま大阪に留まって1泊した次第です。昨日はまず期限が迫っている仕事をスタバで片づけました。明日明後日は東京なのですでにノマド気分でした。捗りました。そして、まんだらけグランドカオスに向かいました。ところがスマホのナビがかなり遠方をガイドするので調べたところ移転していることがわかりました。途中、戎橋筋の道具店や日本橋の電気街に寄ったりしてずいぶん歩きました。まんだらけはサブカルチャーの老舗ですが哲学書など人文書の古本が相場より安価に設定されいることが多く、昨日もこれまで手が出なかった本を買い求めることができました。ソール・ライター著『ソール・ライターのすべて』(青幻舎 2017)とサイモン・モリソン著、赤尾雄人監修・訳、加藤裕理訳、斎藤慶子訳『ボリショイ秘史:帝政期から現代までのロシア・バレエ』(白水社 2021)などです。前者は写真が豊富で見応えがあります。後者は帝政ロシアでなぜあのような華麗なバレエが生まれ、ロマノフ王朝末期の社会不安が募る中でチャイコフスキーがなぜあのような美しいバレエ曲を書いたのか、書けたのかという私の疑問に答えてくれそうに思っています。旅先で古本を買い求めたときの悩み、それはどうやって持ち帰るかということです。今回も然り。バックパックで来たので背負って帰ることになります。

高山で山を見る

一昨日から昨日にかけて高山に行っていました。昨年から新型コロナが落ち着いたら富士山とアルプスに登りたいとあれこれ計画してたところ私が右足首を骨折したので山を見るという計画に変更してのことです。新穂高ロープウェイの標高2000m超の西穂高口駅の屋上展望台で同行の山仲間と小一時間山を眺めていました。西穂高岳山頂付近は雲がかかっていましたが続く稜線上のジャンダルムや槍ヶ岳などははっきり見えました。

山に登ることができないのは残念でなりませんがアルプスの山々を目の当たりにするとそれだけで満たされるものがありました。山を見るというのはどういうことなのだろうか。直接山の恵みで生活しているわけではないのに山を身近に感じてじっと見つめてしまいます。頂や稜線、重なる岩、崩れた山肌、等々、様々な様相が山にはあります。山をそうして見ることでを山の姿に重ね、ときに懼れから信仰の対象とするのだろうか。昨日、アルプスの山々を見る私に登頂したいという気持ちはありませんでした。ただただ歩きたいということでした。ロープウェイで見かけた登山客の装いもいいものだと思いました。使い込まれた山道具は美しい。しっかり足を治したいと思いました。

その足ですが、今回は高山市街の散策を含めて長時間歩くのでそれ自体がちょっとしたチャレンジでした。靴はミッドカットのトレッキングシューズを履いて行きました。患部に違和感はあるものの歩くこと自体は負担ではないのですが立ち止まると足が腫れてくるような感覚があって気が気ではありませんでした。スロープや階段は昇りはスムーズですが下りで反対の足を先に下ろす恰好になると足首から甲にかけてつっぱってときに痛みがありました。それもリハビリとあちころ歩き回りました。温泉では足首を持って関節が馴染むようにいろんな方向に曲げました。そして、一日の終わり、ホテルと家に帰って足首を見ると腫れはさほどではなく一晩休ませると左右に大きなちがいがなくほっとしました。そして、やせ我慢ですが、このけがのおかげで学んだことは少なくないと思っています。いずれふり返りたいと思います。

「である調」と「ですます調」

先週、研究の構想を「である調」から「ですます調」に書き換えることがありました。研究への協力の依頼文書に添付するものです。先方は研究職ではなさそうと思われることからやわらかな文体の方が相応しいのではないかとの判断です。そして、書き換えようとしたとき、単に文末を換えるだけではなく文中の副詞や言い回し、言葉そのものまで換えることになって興味深い作業となりました。

いわゆる博論本で「ですます調」書かれた本があります。他にはちょっとない文体です。「ですます調」だと読みやすい、つまり、理解しやすいかというとそういうことではなく、本、著者が語りかけてくるようで興味深く読みました。かくいう私もこのブログは20年以上「ですます調」を基調に書いています。「ですます調」で書くときと「である調」でかくときと何がちがうのでしょうか。私は単に印象に留まらず内容やときとして文脈が異なることもあり得ると考えています。

今年1月末にある教育実践の事後研修会の講評と助言を仰せつかって資料を用意することがありました。その過程で自分にしっくりくる体裁として、パワーポイントの資料は「である調」で書き、子どもたちの様子を現象学的に考察した文章資料は「ですます調」で書くことになりました。前者はかちっとした仕上がりで、後者は語りかけ調でソフトタッチですがわかりやすさという点では引用も含めて必ずしもそうではなかったと思っています。でも、文体で書き分けたことは今のところ間違っていなかったと思っています。「である調」では記述が難しいことが「ですます調」ではなんとか言語化できそうと思って書き綴る感じです。もちろん、現象学的分析においてもそのほとんどが「である調」で記述されているので「ですます調」はごく少数派です。

以下、関連した話題でこちらを一部書き直しての再掲です。

ハイデッガー著『存在と時間』の複数の翻訳の中には「ですます調」で訳されたものがあります。岩波文庫の「旧訳」です。「気分」についてのところは次のように訳されています。

情態性は少しも反省されていないので、むしろ情態性は現存性をばまさに、配慮された「世界」へと無反省に譲り渡し引き渡されているさなかに襲うのです。気分が襲うのです。気分は「外」からくるものでもなく、世界・内・存在の仕方として、この存在そのものから立ち昇ってくるのです。(ハイデガー著、桑木務訳『存在と時間(中)』 岩波文庫 1961)

「ですます調」もさることながら「をば」という言葉に目が点になりました。口語体というのかカジュアル調というのか、この訳を紹介したブログには「講演調」とあり、「ハイデッガーがしゃべるのである」などとありました。桑木務訳は古本しか入手できませんがしばらくその文体に浸っていきたいと思わせる魅力があります。対面で誰かに話しかけているような、対話しているような、でも、ぶつぶつと独り言を言っているようでもあります。

他の訳も見てみます。

情態性は反省されていないどころか、配慮的に気づかわれる「世界」に無反省に身をまかせ、没頭しているときにかぎって現存在を襲う。気分とは襲うものなのだ。気分は「外部」からくるものでも「内部」からくるものでもない。世界の内に存在する様式として、世界内存在そのものから立ちのぼってくる。(ハイデガー著、熊野純彦訳『存在と時間(二)』 岩波文庫)

情状性は、配慮的に気遣われた「世界」に無反省に身をまかせ引き渡されているときにこそ、現存在を襲う。気分は襲うのである。気分は、「外」から来るのでもなければ、「内」から来るのでもなく、世界内存在という在り方として、世界内存在自身からきざしてくる。(ハイデガー著、原佑責任編集『存在と時間』 中央公論社 世界の名著74 1980)

心境はことさら反省的なものであるどころか、それはむしろ、配慮された世界へ「無反省」にかかりきっているときにこそ、にわかに現存在を襲ってくる。しかり、気分は襲ってくるものである。それは「外部」から来るものでも「内面」からくるものでもなく、世界=内=存在のありさまとして、世界=内=存在そのものから立ちこめてくる。(ハイデッガー著、細谷貞雄訳『存在と時間』 ちくま学芸文庫 1963理想社版 ハイデッガー選書16巻基)

では原語はどうなっているのか。ドイツ語をドイツ語として読まなかったらハイデッガーの真意はわからないのではないでしょうか。

右足首骨折

5月の連休に同僚と秩父の三峯神社を訪れて奥の院に登った翌日、一人で北八ヶ岳のにゅうに登って下山、駐車場に向かう白駒の池の周遊路を歩いていたときに残雪で転倒して右足首を骨折しました。下山してチェーンスパイクを外したのは油断以外の何ものでもありません。道の中央に蒲鉾のように残った残雪は気温が上昇してシャーベット状になっていました。転倒して体が右に傾いたとき右足首からブチッという音が2回しました。ポールを杖にしてどうにか車まで戻って登山靴を脱ぐときは足がちぎれているのではないかと怖かったですが運転に大きな支障はないようで注意しながら帰宅しました。

地元の病院で診てもらうと右足首の関節に米粒くらいの骨のカケがあって骨折という診断でした。ギブスで固定して松葉杖の生活となりました。運転はできるというので通勤はできたものの松葉杖なので不自由この上なく、また、一目でその不自由さがわかるので同僚や子どもたちからずいぶん心配され助けてもらっていろんな話の機会もいただきました。

松葉杖の生活は4週間続きました。肢体不自由の特別支援学校に通算12年勤務したことがあるので人が歩くとはどういうことかと、文字通り身をもって考えることがしばしばありました。今回の経験で松葉杖歩行は通常の歩行の延長線上にあることがわかりました。松葉杖歩行は通常の歩行の体重移動を身体が知っているからこそ比較的早期に可能になったのだと思います。私が肢体不自由の特別支援学校でかかわった子どもたちの歩行は通常の歩行の体重移動を経験したことがないことからその仕組みを教えることが大切でした。それが難しいのです。子ども一人ひとりに応じた歩行のポイントを見きわめるのは理学療法士らの助言が頼りになります。松葉杖とはいえほどなく歩けるようになった自分の身体が不思議でした。

松葉杖で安定して歩くには体重を進行方向に向けることがポイントになります。直立姿勢から歩行に移るときは重心を進行方向に傾けます。そのままだと倒れますから松葉杖なりもう一方の脚を進行方向に出して体重を受け止めて次の動作に移ります。ホンダ技研がアシモくんを安定して直立させるために常に不安定になるようにプログラムして絶えずその修正をし続けることでそれが可能になったと聞いたことがあります。それに通じる理屈なのだろうと思いました。

ケガから2か月半が過ぎて骨折そのものは治りましたが足首と足の甲の柔軟性はまだ戻らず日によっては患部が痛んで腫れるという状態です。それも日々回復に向かっているので深刻に心配しているわけではありません。あとしばらくの辛抱で登山は秋から再開することにしました。

今回のケガでは、しかし、たくさんの学びがありました。今も患部は痛むことがありますが、24時間ずっと痛みがあるとどんなことになるのか、それを初めて経験して知ることになりました。これくらいの痛みなら大丈夫と自分に言い聞かせながらもその痛みのせいで夜は眠れず物事に集中することもできずで、仕事はけっこう辛抱しながらしていました。仕事に集中しているときは痛みを忘れることもありました。「痛みを抱えながら生きる」というような現象学的研究は学習会で何度か接してきましたが自分で経験すると言語化なんてとんでもない、この痛みとどう付き合えというのかと、そんな動物的とも言える単純な思考に陥ってしまいました。言語化のために誰かインタビューしてくれと思うこともありました。この骨折の経験を研究の対象にしないなんてもったいないと、そんな浅ましいことも考えました。今日から学校が夏休みに入ってやっとこうして書くことができるようになったわけでそのこともメタ的に興味深い。貴重な経験でした。と過去形にするにはもうしばらくの時間がかかります。

木地雅映子『氷の海のガレオン』

私が木地雅映子の本を初めて読んだのは『ねこの小児科医ローベルト』でした。この本が出版されたのが2019年でほどなく取り寄せました。リアリティが残るねこの絵とローベルトという名前に惹かれました。肝心の物語はというと名は体を表すのことわざ通りで、ねこの小児科医がバイクに乗って往診に駆けつけるなどというあり得ない設定なのに不思議なリアリティがあって、そして、結末は・・・しっとりとした読了感でした。同僚にも薦めました。

今月、木地雅映子の新著が出るというので予約して取り寄せたのは『ステイホーム』です。小説や物語を読むのは久しぶりで読書の時間の感覚に浸ることができましたが不登校といわれる子どもたちと日々かかわるところで仕事をしているので一筋縄ではいかないいろんなことを考えながらの読書となりました。「不登校とコロナ」という図式は学校の様々な側面、課題を浮き彫りにしました。「コロナがきっかけで不登校が増えた」のは事実としても学校が再開しても「学校に戻らない子どもたち」は今もいてそれはコロナが登校しないきっかけであったとしてもその理由(わけ)の根っこはもっと深いところにあるのではないか。木地雅映子はコロナが浮き彫りにした細く目立たないが奥深い亀裂の中にいる子ども(たち)を描いている。「コロナのおかげで学校に行かなくてもよくなった」と考えるのは主人公るるこだけではないと考えるのが教育に携わる者の良心というものではないのか。るるこに自分を重ねる読者は少なくないと思います。

今回読んだ『氷の海のガレオン』は『ねこの小児科医ローベルト』の出版の少し前に購入したことが挟んであった伝票からわかりましたがこれまで読まずに積読のままでした。ある小児精神科医のツイートで「この本を初めて読んだときは衝撃的だった」旨の書き込みがあってAmazonのサイトで検索したところすでに購入済で積読だったことがわかった次第です。絶版になっていて今ではおいそれとは買えないほどに高騰していました。

『氷の海のガレオン』の主人公斉木杉子に自分を重ねる読者もまた少なくないと思っています。るるこも杉子も学ぶことから距離を置いているのではありません。学校から距離を置きたいと思っています。それは身体感覚としてのことと読めます。『氷の海のガレオン』の読者はそこに自分を重ねて、身体を重ねるように共感するのだと思います。

『氷の海のガレオン』の初版は1994年、私の手元にある文庫版は初版に加筆等されて2006に出版されたものです。『ステイホーム』は今月2023年7月です。30年近くの年月が過ぎて不登校という言葉で表される状況の何がどう変わってきたのか、変わっていないのか、その核心は何なのか。慧眼と対話が必要なのでしょう。

それにしても「氷の海のガレオン」という表題はなんという壮絶な光景を想起させることか。

バレエピアノ*滝澤志野ピアノリサイタルから

昨日、勤務先から西方に車をひた走らせて堺市のフェニーチェ堺に向かいました。滝澤志野ピアノリサイタル「バレエ音楽の輝き」です。コロナ以来どころかピアノリサイタルは何年も足を運んだことはなくすべてが新鮮でした。とりわけバレエピアノを生演奏で聴くことになるとは、まさかこんな日が訪れるとは想像だにしなかったことです。

滝澤志野の演奏、ピアノはこれまで聴いたことがないものでした。ピアノ曲という楽曲の枠を飛び出した音楽のように思いました。音は明るく輝いているのですが決して尖った音ではありませんでした。彼女はピアノ曲という楽曲を演奏しているのではなくバレエとともにある音楽を奏でているのだと思いました。なんと素敵な音楽! バレエチャンネルなどで聴いて惹かれたのはそこだったのかと自分の着地点が見つかった気分になりました。

顕著だったのは第一部のショパンでそれらは振付師が取り上げた曲でした。知っている曲なのに、誤解を恐れずに言うとまるでちがう音楽に聴こえました。これまで聴いてきたショパンは何だったのか、それはそれで素晴らしい音楽ですが、それくらい新鮮でした。ピアニストには振付師がつけた振付でダンサーが躍る光景が見えていたにちがいありません。

バレエ音楽をバレエ音楽として奏でるか、はたまた楽曲の醍醐味を追究して奏でるか。このことは小澤征爾が指揮した「白鳥の湖」で考えました。CDを聴くと管弦楽曲としては面白いのですがバレエの情景が思い浮かばないのはなぜ?と思いました。このあたりは私の思い込みが邪魔しているのでしょうか。

プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」のピアノ編曲版はもしかしたら原曲のオーケストラの色彩感などが褪せてしまうのではと気がかりではありましたがオーケストラ版よりも楽曲の構成感などがはっきりわかったように思われて驚きました。

そして、即興演奏は、もしかしたら昨夜のいちばんの収穫だったかもしれないと思っています。滝澤志野は演奏直前に「まだ何もないです」と言ってピアノに向かいました。この場、このホール、この空間、壁の色、木の質感、照明、そして、聴衆の拍手や息遣い、等々の中で、滝澤志野の指先はなんの躊躇いもなく奏でました。左手の指が奏でる音の重なりがとりわけ美しく聴こえました。

帰路、車を運転しながら、いろいろ中途半端に音楽と付き合ってきたと自分のこれまでを振り返っていました。仕事で音楽と関わることはその機会がなくなりました。今こそちがった音楽との付き合い方ができるのではないかと、ふとそんなことを考えています。

昨夜は音楽を深く、ほんとに深く楽しみながらもほんとにいろんなことを考えてしまいました。

会場で買い求めたCDにサインをいただきました。宝物です。

私がよく聴く滝澤志野の演奏です。「ヌレエフ版『ライモンダ』のグランドフィナーレで、パ・ド・ドゥから全員のユニゾンになるアポテオーズ」(このページの中頃やや下です)

バレエを伴奏するピアノは新体操のそれもですが、ずっと前から好きだったことを思い出しました。滝澤志野の洗練されたピアノだけではありません。映画「リトル・ダンサー」に登場するピアニスト、というよりピアノ弾きか、煙草を吸いながら弾くくたびれた佇まいはもしかするともっと気になる存在かもしれません。「リトル・ダンサー」は観るたびに目頭が熱くなりますがそこかしこにユーモアが仕込んであって笑いをこらえる場面がたくさんあります。労働者階級というイギリスの社会構造にも興味津々です。実は、今日は朝から全編をていねいに観てしまいました。

(敬称略)