日別アーカイブ: 2020-02-23

近代とは何か

今頃なぜ近代かというと先日の国際障害者年連続シンポジウムの基調講演の中で近代という言葉が使われて妙に記憶に残っているからです。伏線としては小林敏明著『夏目漱石と西田幾多郎 共鳴する明治の精神』や同じく『風景の無意識 C.D.フリードリッヒ論』などがあって近代社会が人に与えた心理的身体的影響に関心が向いていたことがあります。そんな折、ちょうどここしばらく高校国語で中島敦の『山月記』や夏目漱石の『こころ』を取り上げる中で「近代知識人の苦悩」や「心身二元論」という言葉が指導書にあってここぞとばかりに近代という言葉が迫ってきました。近代とは何か、どんな時代だったのか、そのとき人はどうであったのか、今と共通することはないのか、等々、自分がいかに知らなかったかと今更ながら少しずつ調べています。そして夏目漱石全集と西田幾多郎全集もこの機会にと揃えました。現行のものはとても手が出せないので一世代前のものですが手紙や日記、講演録などにも触れることでふたりの息遣いを感じることができるのではないかと思います。

今取り寄せ中ですが、佐藤泉著『漱石 片付かない「近代」』(NHKライブラリー 2002)の説明は言い当て妙だと膝をポンと打ちたくなりました。「未完成であったり、まとまりの悪い作品を多く残した漱石の、その謎とはなんなのか? 近代国家と近代社会の成立現場を目撃し、そこを舞台に小説の文体で思想を提示し続けた漱石。時代を超えて読み継がれてきたその作品群は、大きな変動期といわれる現在、きわめて示唆的である。」上記の通り2002年、およそ20年前の言葉です。朝日新聞が「こころ」を再連載したのが2014年で反響も小さくなかったように思います。やはりその2014年当時、その時代に生きる人の状況に訴えかけるものがあるというコメントが目に付きました。100年ぶりの連載でした。その間、幾多の戦禍や高度成長、持続可能な社会を模索する時を経て今なおあらたな発見があるということは、つまり、今に至って近代は終わっていないということではないのだろうか。西田幾多郎もまた近代という時代の中で苦難の連続の人生であり、彼の哲学はその体験なくしては成りえなかったことと考えさせられます。夏目漱石や中島敦、芥川龍之介、横光利一らの作品は歴史上は近代文学とカテゴライズされますが読み続けられるべき古典としてこれからも高校の教科書に掲載され続けることを切に願うものです。