哲学という態度

時に読むのが怖くなるというかなぜ今までこの本と出会わなかったのか、なぜ知らなかったのかとページをめくることに躊躇してしまうようにして読む本があります。一昨日届いた本もまさにそうした1冊でした。でもどこからその本を知ることになったのか…思い出せないことが少なくありません。今回はフリマサイトの関連商品に入っていて目に留まりました。その本は肢体不自由の子どもと過ごした経験がある私にとってはその日々や刹那に感じていたことを紐解く考え方が示されているように思います。もっと早く知りたかったと思うのはいつものことですが2012年刊なので担任から離れていた頃ですぐには知り得なったのは致し方ないことです。重症心身障害児とされる子どもたちの教育の最前線と現象学とをつなぐまことに得がたい論考であり研究です。当然ながら発達障害の子どもの教育の考え方にも重要な示唆があります。今頃の出会いですが少しずつ核心のようなものに近づきつつあるような、そんな予感があります。現象学というキーワードから広がる世界のなんと奥深いことかと思います。次世代の先生方に伝えたいと思うのは歳のせいだろうか。でも、疎ましく思われても伝えたいと思う。

やはりネット検索していて偶然知ったことです。岩波書店のPR誌『図書』(2002年11月号)の巻頭言に教育哲学者の上田薫氏の「祖父西田幾多郎と私」を見つけました。岩波書店が5回目の西田幾多郎全集の配本を始めるに当たって依頼したものと思います。この中で氏は戦争体験が「論壇哲学」に強い違和感を覚え、アカデミズムからそれていったこと、しかし、心が哲学から離れたのではなく祖父の生き方から学びとったものは生々しく上田氏の根底にあると記しています。82歳のときの言葉です。上田薫氏は昨年11月に99歳で亡くなりました。文部科学省は現行の学習指導要領について中央教育審議会で審議するに当たって氏に意見を求めています。戦後初めて学習指導を編纂したとき手がけた氏の語りは生き証人としてNHKのウェブサイトで視聴することができます。(こちらから)哲学は学問領域のひとつですがそれは自分自身の態度でもあると私は考えています。哲学はいつもいつまでも生々しく自分の中にある。それゆえ哲学と現実の事象を絶えずつなぐエネルギーが必要であり、それが態度ということになるのであろうと考えます。上述の教育の最前線と現象学をつなぐ研究はひとりの理学療法士の日常から生まれました。「子どもの理解は認識としてではなく、子どもとかかわる行為のなかでなされる」(矢野)ことから生まれた本であると考えます。

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