『風景の無意識 C.D.フリードリッヒ論』

先日、大阪の某古書店で目に留まった小林敏明著『風景の無意識 C.D.フリードリッヒ論』(作品社 2014)は帯に「フロイトとハイデッガーに共通する核心」とあって思わず買い求めました。私はフロイトもハイデッガーも原著をほとんど読んだことがなくこの本の記述もどこまで理解しているか心もとないのですが同時代を生きたふたりに通じるところを論じるという視点に興味が尽きません。やはり小林敏明著『夏目漱石と西田幾多郎-共鳴する明治の精神』(岩波新書 2017)も然り、昨日届いた小林敏明著『西田幾多郎の憂鬱』(岩波書店 2003)も然り。人は「何もない」ところでこうした営みを行うのではないはずである。社会状況や自分の生活状況、そして、心身の状況もあって人は生成変化する。私の興味関心の焦点はそこにあります。人はなぜそうしたのか、そうするのか、ということです。ハイデッガーも当時のドイツやヨーロッパの社会や文化の中にあって思想を展開している。孤高の人ではない。フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』やサルトルの実存主義の考え方も戦争で疲弊した母国やヨーロッパの状況の中で生まれた。著者は「フロイトとハイデッガーに共通する核心」をもたらしたものが当時のドイツの社会状況にあるとしてフリードリッヒの絵にその本質を探ろうとする。19世紀を神経症の時代、20世紀を統合失調症の時代とする考え方があります。19世紀当時、そして20世紀当時の社会状況と精神病理との関係を考えることは21世紀の社会状況と人間の病を考えるときの大きな示唆となるはずと考えます。

そして、21世紀をどう読み解くか・・・自閉症を切り口とした現在進行形の病理学等の研究に注目しています。今読んでいる本は『〈自閉症学〉のすすめ』(ミネルヴァ書房 2019)と斎藤環著『生き延びるためのラカン』(ちくま文庫)です。前者の「國分功一郎×熊谷晋一郎×松本卓也による鼎談」は活字の間から火花が飛び散っているようでスリリングな快感があります。後者は13年も前の本でありながら今の日本についてリアルタイムで語られているようで驚くのですがジャック・ラカンもまた第二次世界大戦をはさんで生きた人です。この時代については大澤真幸著『社会学史』(講談社現代新書 2019)の序文が面白い。今を見極めるために過去を知ることは明日を描くためにもまた欠かせない。

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