日別アーカイブ: 2019-09-06

生きられる物語

NHKの連続テレビ小説「なつぞら」は東大哲学科出身という設定の坂場一久のセリフが面白くてついつい観てしまいます。今朝は『大草原の小さな家』の企画書を会社に提出したときに「生きられる物語」という言葉があってまた注目していまいました。

大沢麻子「原案…『大草原の小さな家』は原作でなくて原案なの?」
坂場一久「この小説はあくまでも原案にしたいと思います。この作品の中へわれわれが生きられる物語をこれから生み出したいと思います。」

そして思い出したのはこちらのツィートとリンク先の記事です。

『中動態の世界』の潜在力を教えてくれる文章。これを読むと「れる/られる」が、〈受け身〉と同時に〈可能〉の助動詞であることの理由もよくわかる。〈可能〉が、自分の「能力」の話になるほうが不思議だぜ。

「助動詞「れる/られる」は、受身と可能、自発、尊敬の4つの意味があるとされますがその意味をひとつに限定することが難しいことが珍しくありません。例えば、7月の授業実践研究の講義で引用した西岡けいこ著『教室の生成のために メルロ=ポンティとワロンに導かれて』の「意味生成の開かれを共にする楽しさ」というフレーズです。先生と子どもがともに過ごす時間と空間においてそこで生成する様々な意味は誰かが意図的に付与するものでも勝手に生まれるものでもない。先生と子どもとの関係において生成する。それゆえ「開かれ」の助動詞「れ」は受身でも自発でも可能でもある。とりわけ生まれる意味の多様さや意外さはすべてが生まれ得るという可能性に含まれる。「生きる」ことは自発でも受身でも可能でもあるはずです。まさに中動態です。このツィートは山田百次さんのこの記事をリンクしています。

こちら「方言で芝居をやること|第7回|中動態としての方言|山田百次」

昨年9月のオープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)のシンポジウムで國分功一郎先生が「意志」について言及されたことを思い出します。白石さんのツィートの最後にある「能力」はしばしば「責任」問題にも繋げられてしまいます。自己責任ということです。私たちはもっともっと不確実性への耐性や寛容を指向したいものだ。