時間について考える

先週末、カズオ・イシグロ原作の映画「日の名残り」を観たくなってDVDの再生をしたとたん、冒頭からその深い色合いに引き込まれてしまいました。その日はまたNHKで「カズオ・イシグロを探して」の再放送がありました。2011年放送の番組で私も観ましたがほとんど忘れてしまっていました。今あらためて観ると大切なメッセージがぎっしり詰まっていてこちらにも引き込まれてしまいました。それはさておき、ふと、この6年間に私は何をしてきたのだろうと考えてしまいました。

彼は5年に1作のペースで小説を発表しているとのことです。5年をかけて1つの作品を書く。もちろん、1つの作品に構想から出版まで10年以上かけることもあるので単に5年をかけてということではありません。このペースは、しかし、英語圏ゆえに可能といえるでしょうか。英語で書かれた作品はそのまま英語圏の国や地域、英語を解する大勢の人々に翻訳せずに提供が可能となり、著作権料もそれなりとなって5年という執筆期間も可能となるというわけです。この点で日本語は不利となります。日本語で書く作家は薄利多作を強いられているといっても過言ではないでしょう。

5年という年月を長いと考えるか、短いと考えるか。ここ10年、1年毎の結果を追って仕事をしてきたので5年という年月は未知の世界ですが、それだけに次の5年、10年は未知の世界に飛び込むことになるので新年度を待ち遠しく思っています。

日頃、なんとなく合う合わないと感じるとき、その対象が人のとき、その人と自分がいるそれぞれの時間の流れやそのスピードが違うのではないかと考えてしまいます。時間の伸び縮みは人が感じる以上、現実にあるのではないかと思います。だから何がどうということではなく、自分の時間の感じ方でその人らしさが具現化されると考えます。自分らしさは自分の時間の感じ方を獲得したとき自分のものとなる。そう思います。このことについてはもっと精緻な論理構築が必要ですが、それこそその時間が今はありません。

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