日別アーカイブ: 2020-01-24

写真・カメラ談義

仕事や取り組んでいることがひとつまたひとつと終わっていきます。その度にほっとしますがすぐまた次のタスクに取り掛からなくてはならない。そうして月日が過ぎていきます。ゆとりはなく悩ましいのですがかといって悲愴感はない。泳ぐのを止めると死んでしまう鮫のようだと思うことがあります。

先週、奈良原一高氏が亡くなりました。昨年末の日曜美術館で特集が組まれ、先々週には彼の写真展を東京で観たばかりで、また、やはり東京で開催の写真展「人間の土地/王国Domains展」の目録を取り寄せたばかりだったので驚きました。写真展の開催中というタイミングに亡くなったわけで数々の話題の作品を発表してきた彼らしいのかなと、ふと過りました。

写真ということでは『アサヒカメラ』1月号はレンズの特集で、標準レンズとされてきた50㎜レンズや「無人島に一本だけレンズを持って行くとしたら…」などについてプロの写真家128人の考えが紹介されているのは興味深い。私もカメラを持ち出すときはフルサイズだけでなくAPS-Cでも携行するレンズを1本に絞って身軽に行動したいとあれこれ考えることがあります。フルサイズならパンケーキレンズのEF40mm F2.8 STMが小気味良いし山行ならTokina AT-X 17-35 F4 PRO FXの広々感が良い。APS-CではしばらくEF-M11-22mm F4-5.6 IS STMを使ってきましたが“お散歩レンズ”ならやや画角が狭くなるもののEF-M18-55mm F3.5-5.6 IS STMの方が良いかもと思えてきました。悩ましいレンズ選びですがささやかな愉しみです。

朝日新聞社のAERAのウェブサイトでは『アサヒカメラ』の特集と連動して「写真家128人が回答 「標準レンズ」って何ミリ?」の記事が出ています。35㎜と50㎜が1位2位で4割強を占めていて40㎜~45㎜も9人います。私ならやっぱり40㎜とするでしょう。高校のとき使っていたキャノネットのレンズはたしか40㎜でその画角が馴染んでいるのかもしれません。

ところで、雑誌『太陽』(平凡社)No.203、1980年3月号の特集は「佐伯祐三 絵画 vs 写真」で、佐伯祐三の絵に描かれたパリの街の風景を写真家の高梨豊氏が同じ構図で写真に撮ろうという企画です。今日この本で確かめたら121㎜や150㎜などの望遠レンズがほとんどだったのですが、別のところで高梨氏は佐伯祐三の絵は50㎜の画角とほぼ一致する旨を語っていたような記憶があります。「佐伯祐三と標準レンズの眼差し」と題する2008年12月22日の記事を引用します。

昨日、日曜日の朝、NHK-ETVの「日曜美術館」は佐伯祐三の特集でした。この7月に三重県立美術館でまさに対峙したともいうべき佐伯祐三の絵画の強い印象がよみがえってきました。この番組中で驚いたことがありました。写真家の高梨豊が、佐伯祐三が描いたパリを写真に撮って回ったところ、50mmの画角でほとんどの写真が合致したというのです。35mm判で50mmは標準とされていますが、実際に50mmレンズを着けてファインダーでその画角を見ると思いの外狭く感じます。広角でも望遠でもない、中途半端な画角とされがちで標準と名付けられながらほとんどマニアックな扱いを受けてきました。でも、その画角が人間の目の見方にいちばん近いとのことです。私たちは広い視野の中で自分が見たいものに焦点を合わせて他の情報と区別します。物理的な視野と情報処理上の視野とは自ずから異なるわけです。でも、人間は欲張りなのでしょう。1枚の写真の中に広さを求めることがあります。では、佐伯祐三の視野は何だったのか。自然体でパリの街を見つめ、切り取ってカンバスに再構成したということもできるでしょう。自分の目がまっすぐ見つめるものだけをカンバスに描いた。50mmレンズの画角の窮屈さを知っているので佐伯祐三の気迫のエネルギーの凄さに圧倒されるのであろうか。(引用ここまで)

50㎜の画角は今も窮屈だと思っています。いわゆるスナップショットで風景を「切り取る」感覚ならいいのかもしれませんが、『アサヒカメラ』1月号の記事によるとそれは道路が広いヨーロッパでの使い勝手で日本なら35㎜がスナップショットとして標準ではないかと。フィルム全盛期はそこからトリミングするので画角はもっと狭くなることも少なくなかったと思います。なるほどと思いましたが私は40㎜党です。いつになったらカメラだけを持って散歩に行けるのだろうかと思いつつしばしの写真・カメラ談義でした。