日別アーカイブ: 2020-01-16

『精神看護』2020年1月号

年末大掃除の真っ最中に届いた『精神看護』2020年1月号の「座談会 千葉雅也×國分功一郎×村上靖彦×熊谷晋一郎×松本卓也 統合失調症から自閉症へ ロビンソン・クルーソーは無人島で誰に最初に出会うのか」を年末年始に何度も読み返しました。

この特集は昨年7月27日に大阪で開催されたイベントの文字起こしで、主催は塩飽海賊団という臨床心理士らが立ち上げたグループです。そもそもそのネーミングがどこか怪しいのですが、前述の5氏が一堂に会するセッションは只事ではないと一も二もなく参加を申し込みました。当日は100人超の聴衆が大きめとはいえない会場につめかけていました。私は一番前の席に着いたこともあって5氏の息遣いまではっきりとわかるリアルタイムの知の饗宴に決して大げさでなく前のめりになって酔いしれてしまいました。メモをしまくりましたが追いつかずで『精神看護』の特集がほんとにありがたく、医学書院の諸氏に感謝感謝です。

さて、私をしてこうした場に行かしめたのは一体何だったのか。『精神看護』での文字起こしを読んで、やっぱりそうかと、前々から気になって時に記していたことを確信できたように思います。昨年8月6日の私的な勉強会の資料の冒頭に記したこと、「今考えていること/教育者は教育の言葉で教育を語っているか/~教育の言葉を取り戻したい~」という欲求なのです。

昨年度末の初任者研修の研究授業の学習指導案を作成する時、指導案を作成する毎に感じてきたある感覚がよみがえってきました。指導案の言葉、文言が自分のものとは思えない違和感です。その研究授業の直後に私はブログに次のように書きました。

「指導案は授業者の意図が記述されているはずですがどこまで書き切っているといえるのか。そこで使われている言葉は授業者の言葉なのか。子どもたち一人ひとりの姿が素のまま浮かんできているだろうか。子どもが生き生きと描かれているだろうか。そもそも授業の意味について授業者は自分が納得できる言葉を持っているのだろうか。こうして書くと問い詰めているようですが授業準備はとても面白いものでした。目の前で起こっているのはどういうことなのだろう、これは何なのだろうと言葉を見つけていく作業でした。このプロセスは多分に現象学の発想が生きているように思っています。」

学習指導案作成の指導は私自身が教育の言葉を見つけていくプロセスそのものでもありました。なかなか言葉が見つからず、かろうじてこれならと使った言葉は昨年度から勉強を続けてきた現象学でよく用いられる概念や言葉にあることがわかってきました。そして、授業を研究する第一のキーワードを「心躍る経験」としました。その授業は「心躍る経験」によって子どもにも先生にも意味があると共通理解できるのではないかと。これは現時点でも間違っていなかったと思っています。

戻りますが、『精神看護』のこの記事を読んで、教員は教育を語るに欠かせない言葉の何割かを持っていないことがはっきりわかりました。37年の教員経験で靄のような霧のようなものを感じていたことの理由です。座談会ではとりわけ熊谷晋一郎氏と村上靖彦氏が指摘しています。ここでは熊谷氏の発言から長くなりますが引用します。

熊谷晋一郎
 「哲学に何ができるか」という話を私ができるかどうかわからないですが1つ言えることは、当事者研究もやっぱり言葉や概念を生み出そうとする試みだということです。自分の経験をうまく言い当てる言葉、あるいは理論、あるいは概念を生み出す。その時に日常言語だけでは足りないということに突き当たる時があります。
「日常言語のやさしい言葉で話すことが当事者に寄り添ったことだ」というふうに勘違いされていますが、日常言語ほどバリアフルなものはない。日常言語というのは、健常者向けにデザインされているツールなんです。つまり、日常言語だけで足りている当事者はまだ自己表現しやすいのですけれども、「当事者研究で言葉を生み出す活動が必要だった当事者」というのは、世間で流通している日常言語では自分の経験や思いを形にして人に伝えることが困難だった人たちだと思います。そういう意味で、いろいろな専門分野から言葉を借りたり、それをアレンジして自分のことを表現する言葉として活用したりする当事者たちの、そういったその貪欲な取り組みが世界中で始まっていると思うんですね。
 哲学者というのは、他の研究者以上に概念を吟味することに長けた専門家集団だと思います。哲学の分野が洗練させてきた概念の中には、日常言語がバリアフリーになっていない当事者にとっては使い勝手がいいものがある。それを丸ごと使うのはちょっと違うんですけれども、誤読も含めて活用あるいは転用することで、当事者研究は進むという部分もあるのかなと思っています。
 私は國分さんの本を読んだ時に、こういう言い方は失礼かもしれないですけど、「これは使える!」と思ったんです。登場してくる概念が当事者研究に使えるということです。そういう意味では、当事者主導で、なおかつ哲学者が生み出す精緻な概念を活用していくというつながり方があり得ると思います。(引用ここまで)

彼は当事者研究について述べており、取りも直さずこれは学校の先生たちが授業や日常の場面で自分たちの目の前で起こっていることについて、子ども(たち)と自分(たち)のこととして、つまり当事者としてそのことを研究するという意味においてまさに学校の先生たちも当事者研究を行う当事者そのものであるはずです。そこに、それに見合い耐えつつインスピレーションを与える言葉があるのかどうかということを私は俎上に上げたい。学習指導要領や学力、キャリア教育といったフィールドの言葉だけでなく、教育の最前線の一瞬一瞬の意味を語る言葉です。昨年度の指導案作成にあたってあらたに何冊かの本を読みました。その中の1冊、西岡けいこ著『教室の生成のために メルロ=ポンティとワロンに導かれて』の一文に目が留まりました。「意味生成の開かれを共にする楽しさ」です。これこそ「この研究授業で追求したものは何だったのか!?」という問いへのひとつの視座と考えました。もちろん、なぜそう言えるのかについては詳細に考察しなければならないのですが、この言葉にインスピレーションを得たことで授業づくりがますます面白くなりました。概念や言葉を探すことは、でも、悩ましく苦しい営みです。参照する文献は膨大です。終わりのない旅と言えます。それだけに取り組む意味と喜びがあると考えます。

※アイキャッチ画像は元旦の白米城跡から望んだ空です。