哲学の使命

■昨日の朝、アテンザの外気温度計が12℃を指しました。前日までは17度が最低だったら5℃も一気に下がりました。空気が凛とするこの季節は美しい。日が昇った青空も夕日もきれいだ。散りゆく葉っぱたちの一枚一枚もなんときれいなことか。
■やはり昨日の朝、きらら学園の校門でいつもの交通整理をしていたら藤車(とうぐるま)を押したおばあさんに声をかけられました。家には58歳の肢体不自由の子がいて、その子が小さな頃は学校にも行けなくて、きらら学園の前を通る度に「ここには行かせてもらえんのやろな…」と思うとのこと。母は86歳、私が倒れたら子どもは施設に入れてもらうしかないと、そうさらっと話す言葉のなんと重いことか。私はやりきれない気持ちに襲われました。日本はほんとに文明国なのか!? 私は今と今に続いてきたこれまでに意味と価値を見いだし、今と今に続くこれからのビジョンを描き続けながら仕事をしているつもりですが、力の至らなさを痛感しています。
■今日は三重大学教育学部附属教育実践総合センター主催のiCERP研究会「木村敏:文化講演会―じこ・あいだ・いのち―」に行きました。ハイデッガーたちヨーロッパの哲学者の文脈と彼の「じこ・あいだ・いのち」という概念の文脈のちがいを自身の体験から語る言葉は私を魅了しました。倫理社会の教科書で知った「自我」という言葉、彼は「私は自我という言葉は使わない。ヨーロッパ製の言葉だ。」と言う。自分の言葉で語る木村敏は心強い存在です。彼自身ピアノを弾くことから音楽の話も随所に盛り込まれてこれも私の理解を助けてくれました。「あいだ」という概念について聴いているうちに新しい障害観のことを考えてしまいました。障害も「あいだ」にあるものではないのか。彼の思索の中に障害を語る言葉はどうあるのだろう。
■哲学の講義は大学以来でとても新鮮でした。私はノートを取りながら戦慄を覚えました。そして、哲学こそこれからの社会に必要だと思いました。ビジョンを描くためのビジョンが求められている。大学の使命は大きい。
■昨夜、「RED VIOLIN」をビデオで観ました。愛する妻の血をニスに混ぜて塗ったバイオリンが紡ぐ数々の数奇な運命はバイオリンという楽器の魔力を思わせる。1本のバイオリンに翻弄されているかに見える人たちは、でも、自分でその運命を紡いでいるのではないのだろうか。夫の元に向かう身重のアンナを見てそう思いました。2階のクローゼットの私のバイオリンはこれからの私の人生にどんな文脈を書き足そうとしているのだろうか。
■今週、Macで初めてプレゼンテーションをしました。Windowsで作ったPowerPointのファイルも難なく使えてあっけないほど! 同じデータを使うなら、でも、やっぱりMacの方がちょっとうれしいのはなぜ?

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