日別アーカイブ: 2023-07-15

バレエピアノ*滝澤志野ピアノリサイタルから

昨日、勤務先から西方に車をひた走らせて堺市のフェニーチェ堺に向かいました。滝澤志野ピアノリサイタル「バレエ音楽の輝き」です。コロナ以来どころかピアノリサイタルは何年も足を運んだことはなくすべてが新鮮でした。とりわけバレエピアノを生演奏で聴くことになるとは、まさかこんな日が訪れるとは想像だにしなかったことです。

滝澤志野の演奏、ピアノはこれまで聴いたことがないものでした。ピアノ曲という楽曲の枠を飛び出した音楽のように思いました。音は明るく輝いているのですが決して尖った音ではありませんでした。彼女はピアノ曲という楽曲を演奏しているのではなくバレエとともにある音楽を奏でているのだと思いました。なんと素敵な音楽! バレエチャンネルなどで聴いて惹かれたのはそこだったのかと自分の着地点が見つかった気分になりました。

顕著だったのは第一部のショパンでそれらは振付師が取り上げた曲でした。知っている曲なのに、誤解を恐れずに言うとまるでちがう音楽に聴こえました。これまで聴いてきたショパンは何だったのか、それはそれで素晴らしい音楽ですが、それくらい新鮮でした。ピアニストには振付師がつけた振付でダンサーが躍る光景が見えていたにちがいありません。

バレエ音楽をバレエ音楽として奏でるか、はたまた楽曲の醍醐味を追究して奏でるか。このことは小澤征爾が指揮した「白鳥の湖」で考えました。CDを聴くと管弦楽曲としては面白いのですがバレエの情景が思い浮かばないのはなぜ?と思いました。このあたりは私の思い込みが邪魔しているのでしょうか。

プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」のピアノ編曲版はもしかしたら原曲のオーケストラの色彩感などが褪せてしまうのではと気がかりではありましたがオーケストラ版よりも楽曲の構成感などがはっきりわかったように思われて驚きました。

そして、即興演奏は、もしかしたら昨夜のいちばんの収穫だったかもしれないと思っています。滝澤志野は演奏直前に「まだ何もないです」と言ってピアノに向かいました。この場、このホール、この空間、壁の色、木の質感、照明、そして、聴衆の拍手や息遣い、等々の中で、滝澤志野の指先はなんの躊躇いもなく奏でました。左手の指が奏でる音の重なりがとりわけ美しく聴こえました。

帰路、車を運転しながら、いろいろ中途半端に音楽と付き合ってきたと自分のこれまでを振り返っていました。仕事で音楽と関わることはその機会がなくなりました。今こそちがった音楽との付き合い方ができるのではないかと、ふとそんなことを考えています。

昨夜は音楽を深く、ほんとに深く楽しみながらもほんとにいろんなことを考えてしまいました。

会場で買い求めたCDにサインをいただきました。宝物です。

私がよく聴く滝澤志野の演奏です。「ヌレエフ版『ライモンダ』のグランドフィナーレで、パ・ド・ドゥから全員のユニゾンになるアポテオーズ」(このページの中頃やや下です)

バレエを伴奏するピアノは新体操のそれもですが、ずっと前から好きだったことを思い出しました。滝澤志野の洗練されたピアノだけではありません。映画「リトル・ダンサー」に登場するピアニスト、というよりピアノ弾きか、煙草を吸いながら弾くくたびれた佇まいはもしかするともっと気になる存在かもしれません。「リトル・ダンサー」は観るたびに目頭が熱くなりますがそこかしこにユーモアが仕込んであって笑いをこらえる場面がたくさんあります。労働者階級というイギリスの社会構造にも興味津々です。実は、今日は朝から全編をていねいに観てしまいました。

(敬称略)