日別アーカイブ: 2009-05-23

音階

この春、自宅の近くに楽器店ができました。暖かいクリーム色の店です。自宅近くに楽器店ができるとわかってからその横を通るたびにうれしく思うようになってきました。楽器店はやはり地域の文化のポイントです。私はそうそう利用するわけではありませんが、郊外に住む子どもたちが音楽教室に通いやすくなることは大事なことだと思います。しかもその楽器店では音楽療法のセッションも行っているのです。地方都市で音楽療法が営業的に継続して成り立つこともまたとても大事なことだ。本を買ったら開店記念のタオルを付けてくれました。
今日はその楽器店に初めて行きました。エレキベースの本も何冊か揃っていて選びがいがありました。買ったのは藤井浩著『ベーシストのための音楽理論』(ドレミ楽譜出版社 2005)です。書名に違わず音楽を構造的に説明しているところが頼もしい。あと、何冊か見ていてこれかと思った本がありました。モーツァルトの「トルコ行進曲」をエレキベースで演奏する動画をYouTubeで見て驚いたことがあって、その楽譜と思しき本、『ベース・マガジン 地獄のメカニカル・トレーニング・フレーズ 破壊と再生のクラシック名曲編』(リットーミュージック)です。何もクラシックでなくてもと思いますが、されどクラシックというところがおもしろい。こんな本も…『ベース・ハノン ベーシストのためのフィンガリング・トレーニング』(シンコーミュージック) ここまでくるとクラシックピアノの練習フローのスタンダードと同じです。機械的な練習ははじめのうちはおもしろくないものですがいつしか夢中になってしまいます。文字通り自分自身と語り合っているような感覚になります。
往年の名ヴァイオリニスト、ジャック・ティボーの『ヴァイオリンは語る』(栗津則雄訳 白水ブックス 1992)に相通じるエピソードがあります。パリ、ヴァリエテ座のオーケストラ・ボックスでセカンドヴァイオリンを弾いていた若きジャック・ティボーが女優エーヴ・ラヴァリエールの楽屋を訪ねたときのことです。
「・・・彼女の黒い瞳には、森のおくの池の面をかすめる落日の光のような奇妙な金属質の光が、ぎらりと走った。途切れ途切れにものを言い、ときおり、妙な抑揚をつけた。どこから見ても、この女性のなかには、病み疲れて回復を求めている魂があるようだった。彼女の生の骨組みがすっかりもろくなっていて、彼女の辛い将来が、すでにそこにはうかがわれるようだった。そればかりか、彼女自身、それをのぞんでいるようにさえ思われた。きっと、昼間、何か辛いことがあったのだろう。彼女の身近な人間ならよく知っているあのいかにもぼんやりした態度で、わたしに肘掛け椅子をさし、自分は化粧台にもどった。そこで、黒い髪にふちどられた顔を、どぎつい光が黄色っぽく色どった何か病的な感じのする両手に埋めた。何かわたしに話かけたが、あいまいで、中途半端な話しぶりだった。この話しぶりにも、彼女の心の乱れ切った様子がうかがわれた。わたしが、この劇場で、第二ヴァイオリンをひいていると言うと、頭がひどく痛むから何かひいてくれと行った。「ええいいですよ。何をひきましょう? 『ヘ長調のロマンス』でも?」「ああ、それはだめ、ロマンスなんで特にだめよ・・・何かもっと簡単なのがいいわ・・・なんなら、音階でも・・・そう、音階がいいわ」わたしは、長く、重々しく、ゆるやかな音階をひき、その音は、まるで髪の毛のようにのびていった。こんなに若いのにこんなにもあきらめきったこの女性に、わたしは、うやまいたくなるほど、ひどく、心を動かされていた。彼女は、涙でもかくすように、部屋のすみを見やりながら、接吻してくれた。」
この後、ジャック・ティボーは彼女の部屋を訪ねた「みなしご」の若い「お針女」を家まで送っていくことになって、後日のこんなやりとりが記されています。
「・・・恋人ではなかったが、いつかエーヴ・ラヴァリエール嬢の部屋で出会ったあの若いお針女の魅力に(もっと正確にいえばさまざまな魅力に)、恋愛感情に近いものを感じていたと言うべきだろう。彼女は、ある有名な洋裁店で働いていた。夕方の七時に仕事場を出ると、最初に来たバスに飛び乗り、クリシー広場で降りる。それから、コーランクール街をくだって、わたしのアパルトマンの階段を大いそぎで駆けのぼり、部屋の入り口で、私と顔を合わせるのだ。わたしもそこで、胸のしめつけられる思いをしながら、いらいらと待っているというわけだ。「ねえあなた・・・わたしを待ってちゃだめよ。・・・勉強しなくちゃ。さあ、早く、ヴァイオリンを・・・」彼女は部屋のすみの窓のそばに座り、まるでお祈りでもするかのように掌をくみああせた。それから、もううっとりとしたように目を伏せた。・・・夜が、窓ガラスのところまで迫ってきていた。うすくらがりのなかで、わたしは、心をこめて、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドと音階をひいた。一方、そのすてきな若い女性は、わたしが音階を解いたり結んだりするのに耳をすませながら、涙をこぼしれくれたのである。「ねえきみ、何かほかのものをひいてほしくないの?」「どういうもの?」「モーツァルトとかさ!」「いや、いやよ!」「なぜだい! じゃ何かきれいなソナタをひこうか、・・・バッハか何かの?」「いや。わたしたちのあいだに、誰か知らない人がいるような気がするもの。・・・音階をひいてると、あなたがわたしに話しかけてるみたいなの」」
このふたつのエピソードは学生の頃にこの本を読んだときから脳裏に焼き付いてしまいました。音階やモードが秘めている大きな力、プリミティブな力を伝えてくれるエピソードだと思います。ジャック・ティボーの『ヴァイオリンは語る』はファンタジーのような彼の音楽人生を鮮やかに描き留めています。翻訳もきっとなめらかだったであろうティボーの口調を伝えているようです。(平仮名が多いのは原文のままです)
今日はもう1冊、若尾裕著『音楽療法を考える』(音楽之友社 2006)を買い求めました。帯に「音楽そのものの意味を問いなおす」とあるように、どのページを開いても音楽の機能を軸にした問い直しがあって示唆に富んでいます。
楽器店にいたのはほんの半時間ほどでしたが、店を出た時、空の色が明るく感じました。ここのところの疲れも少しばかり軽くなっていました。