月別アーカイブ: 2009年2月

ベネズエラの「エル・システマ」

立春が過ぎておだやかな日が続きます。春も近いことを感じるこの頃です。
今朝の朝日新聞に「音楽が育む生きる目標」という見出しがありました。「ベネズエラ、国が推進30万人」「スラムの子らにクラシック教育」との小見出しもあります。「スラム街や貧困層の子どもらにバイオリンなどの楽器演奏を無料で教える音楽教育システム『エル・システマ』」というもので、これは国家事業となっています。提唱者のアブレウ博士のインタビューでは「音楽にたずさわることで、たとば麻薬の世界と関係しなくてもいい塀をつくることができる。音楽はいろんな問題、麻薬や暴力を防止するためにも役立つ。」「芸術は国民の財産と同時に権利でもある。政府は75年の活動開始以来、支援し続けている。子どもたちが音楽を演奏することは、だれもが持つべき権利だ。」と伝えています。音楽だけがそうした成果を生みだすものではありませんが、小さなときから夢中になれることがあることはとても大切なことです。それが芸術やスポーツであればなおさらです。芸術やスポーツは習熟のプロセスがメソッドとして体系化されていて長い年月にわたって技術や表現の向上に取り組むことができます。そこには精神的な成長も育むスタンスが必要です。こうした取り組みが国家事業として何十年何百年にもわたって続くとどんな国家になっているのか、とても関心があります。これも教育です。

生と死の個性

昨日のNHK「クローズアップ現代」は「“私の人工呼吸器を外してください”~「生と死」をめぐる議論~」でたいへん見応えのある内容でした。ゲストの柳田邦男さんのコメントがたいへん共感する内容でした。長くなりますが引用します。
「人間の命は生物学的な命だけではない、精神性をもった命の部分が非常に大切」「ひとりの個別性のある命、個別性のある死を社会が認めていく、一律に線引きをするものではない」「倫理委員会のようなものを二重構造で作る必要があるのではないか」「現場や本人の気持ちをくわしくわかり、リアルにそれを実感できる現場の医療機関の倫理委員会でとことん議論した上で、尚かつ死を選んだ場合、それが日本人にとってどんな意味があるのか、これからの社会制度にとってどんな意味があるのかを、より全体的な視野をもった専門家や、あるいは闘病経験者や難病患者、そういう人たちがとことん議論する国レベルの第三者機関的な倫理委員会が必要ではないか、そして、その倫理委員会で議論したこと、出した結論が絶えずオープンにされて国民全体が議論に参加できる、あるいは関心がもてる、そして、ひとつの結論を出した場合に、それが裁判の判例のように線引きのための前例ではなくて、次の方についてまた次の方の個別性、生と死の個性というものを十分議論してその人の中でもっともいいかたちの結論を出していく。それを5年10年と積み重ねていく努力が必要ではないか。そして、本人がいろいろ気兼ねしないような社会支援のシステム、どんなに苦しんでもそれを支えていくような社会システムが必要です。そして、それがまた生きている人を讃える、精神性の命を讃える文化が必要だと思います。」
たいへん重要なキーワードがいくつか出てきますが、私は「個別性」という言葉に注目しています。そして、この番組全体の基調をなすキーワードは「ナラティヴ」だったと思います。決心や揺れ動く葛藤、そのときそのときのその人の思考や思い、迷いや決断はそのときのものだけどそのときだけのものだけではないのです。その人がそう考えたり心に決めたりするにはそこに至るまでの時間と文脈があり、そこで終わりではなくその先まで続く今のものです。この時間と文脈をともにすることを保障する社会こそこれから築くべき社会なのではないでしょうか。生も死も個別性のあるものという謙虚な姿勢が大切にされるべきだと思います。まさに「精神性の命を讃える文化」です。
今夜のNHK「福祉ネットワーク シリーズ〜子どもたちを支えるために3」はボランティア団体「メイク・ア・ウィッシュ」とCLS(チャイルド・ライフ・スペシャリスト)でした。ひとりひとりの子どもの夢や思いに寄り添いながらていねいに真摯にいっしょに糸を紡いでいくような日々の営みに私の目はただただ釘付けになるばかりでした。
フォーレのピアノ曲全集はジャン=ピエール・コラールのピアノで、録音は1973年から1983年にかけてのものなのに旧さを感じさせません。ピアノの音もなつかしい音です。この音はあの頃の音なのだろうか。聴き慣れた音です。

浅間山と立原道造の詩

浅間山が噴火したとニュースが伝えました。横浜にも降灰があったとか。浅間山というと立原道造の詩を思い出します。「ささやかな地異は そのかたみに/灰を降らした この村に ひとしきり/灰はかなしい追憶のやうに 音立てて/樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた」(「はじめてのものに」より) この詩の灰とは浅間山の噴火によるものと何かで読んだことがあります。この詩の冒頭は彼の詩の中でもっとも印象的です。立原道造の詩も難しいことを考えなくても読めるように思っています。かつて、もう読まないと思ったこともありましたが。人はその時時で心に決めるところがあるものです。

フォーレの音楽

先月、小さなニューイヤーコンサートに行くことがありました。日本歌曲を十数曲まとめて聴く機会となりました。もちろんマイクを通さない演奏で久しぶりに生の音楽を堪能しました。でも、そのときのピアノの音の輝きがいまひとつだったように思えて、意識はしていませんでしたがずっと耳に入るピアノの音を気にしていたようです。昨夜はグールドの「images」を聴いてほっとしたのか、そのことに気づきました。グールドのピアノは実に饒舌です。ひとつひとつの音がその存在の意味を瞬時に伝えています。ただただ圧倒されますが同時にとても安心できる演奏です。彼の独り言も!?
私のiTunesを探ってみたところ、フォーレのピアノ曲が1曲もないことに気づいて全曲集を注文しました。届くまではと、アメリングとスゼーが歌うフォーレの歌曲集を聴くことにしました。このアルバムはレコードのときから持っていてCD盤を買い直したというお気に入りです。録音から40年近くになりますがとても瑞々しい、コンテンポラリー且つノスタルジーに溢れた演奏です。ボールドウィンのピアノも柔らかな輝きがあって最高です。
フォーレの作品はレコードでは管弦楽曲を含めて何枚か持っていますが、CDはこの歌曲全集とレクイエム、そして、ヴァイオリン・ソナタだけです。そのレクイエムもレコードの頃に録音されたアルバムです。ミシェル・コルボ指揮、アラン・クレマンのボーイソプラノです。このレコードをカセットテープに録音してくれたのは大学のときの友人です。また、3年前の夏にはこの演奏のことを語る人と思いがけなく出会うことがありました。エピソードの多い演奏です。
私がフォーレに惹かれた理由は直感的でした。ただただ音楽に浸れるからでした。難しいことを考えなくても聴けるのです。自分らしくない聴き方で苦笑してしまいますが、だから今フォーレが聴きたいのかな、と思います。弾くにしても「3つの無言歌 op17」から第3曲の変イ長調をゆっくり弾くなんてきっと素敵だ。