映像と音楽

「おしん」の全編放送の前に総集編4回が昨日までに放送されました。その総集編は文字通りの駆け足で、私は「おしん」をあまりしっかり観てこなかったので記憶にないシーンを想像しながら観ました。そして、なぜしっかり観てこなかったのかがわかったように思いました。ストーリーはともかく、また、映像もさておき、劇中の音楽の印象が薄かったことです。音楽でドラマのストーリーなどを云々するのは脚本家にとって迷惑なことですが私はそんな観方をしてしまいます。「おしん」の音楽がもっと印象的であったならそのストーリーや映像はもっと記憶に残っていたはずだと思うのですが、しかし、一方で、現在に至るまで「おしん」が世界中で受け入れられ、観られ続けているのは音楽の印象が薄いこともひとつの要因ではないかと今回気づきました。つまり、音楽の印象が薄いことで文化のちがいを超えて広く受け入れられているのではないかと。言い換えればそれだけ音楽の影響は大きいということです。やはり30年前のこと、ある作曲家がNHKの番組「シルクロード」について話していたことは忘れられません。「『シルクロード』の音楽はシンセサイザーを使った純音の音楽で、美しい映像とともに血で血を洗ってきたシルクロードの歴史からかけ離れた印象の番組にしたNHKの責任は大きい」と。これもやはり1980年代の「NHK特集」では織田晃之祐がシンセサイザーで「ミュージック・エフェクト」を付けていて、たった1音で映像が饒舌に語り始める印象がありました。騒々しい番組が続く年始の放送で「おしん」の総集編は一味ちがう音のあり様を見せてくれたように思いました。

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