日別アーカイブ: 2005-02-25

京都市立総合養護学校の文脈

■昨日今日と、文部科学省教育研究開発学校指定研究中間報告会出席のために京都に出張しました。研究テーマは「総合制・地域制の養護学校における教育課程はどうあるべきか~障害種別の枠をこえた教育課程のあり方に関する研究~」です。
■出張の前夜にamazonから『学びとケアで育つ~愛育養護学校の子ども・教師・親~』(小学館2005)が届いてバッグに入れて京都に向かいました。早めに京都に着いたので駅ビルのカフェで読み始めました。
■この中の佐藤学さんの「学びとケアの共同体へ~教育の風景と原風景~」にカリキュラムについて次の記述があります。「日本において『カリキュラム』とは、通常、子どもの学びに先立って準備されている『計画』や『プログラム』を意味するものとして認識されている。しかし、『カリキュラム』は、そもそも『人生の履歴』という意味を含意していることが示すように、『学びの履歴』を意味するものとして認識すべきだろう。すなわち、『カリキュラム』は欧米において『学びの経験の総体』として定義されているように、学びと経験を構成する活動内容や環境や人の組織を含みこんだものとして認識するべきだろう。『計画』や『プログラム』は『カリキュラム』の一部に過ぎないのであり、『カリキュラム』の創造と『学びの経験』の創造とは同義である。『カリキュラム』は『学びの履歴』であり、一日の終わりにつくられ、年度の終わりに編成されるものとして再定義する必要がある。」 ここで大切なことは「カリキュラムを『学びの経験(履歴)』としてどう洞察し構成するか」ということになる。これは極めて難しい。だからこそ教育に携わる者に要求される専門性なのだと思う。「反省的実践」(松木 2003)の積み重ねこそ教育の営みの核心であり、特別支援教育の中核をなす理念だと考えます。
■京都市立総合養護学校の「カリキュラムベース」はその「…洞察し構成する」ことの試みのひとつといえるでしょう。発達障害がある子どもの指導・支援の継続性と一貫性、そして、実生活への汎化という、いちばん大切なことにもかかわらず課題であり続けていることへのチャレンジです。これを140万都市で行い、地域制・総合制に基づく養護学校の再編をしたのですからその実行力はたいへん大きなものがあります。これを可能ならしめた理念とその共有への歩みはどれほどのものであったのかを私は思わずにはいられません。京都市立総合養護学校の文脈は障害児教育に一石を投じてくれています。私も勉強します。
■京都駅で私が入ったカフェはカフェ・デュ・モンドです。そこでカプチーノと隣りのミスドでアップルパイを買ってテーブルに着きました。そこは北風が吹き込むオープン・カフェです。フリースの膝掛けまであります。寒い! ミスドのスタッフはコートを着ているし、カフェ・デュ・モンドのスタッフはおそろいのフリースの襟を立てています。わざわざそんな店を選ばなくてもいいのに次から次へと人が来ます。学生、サラリーマン、OL、お年寄り…中にはパソコンを出してキーを打つ人もいました。はるか頭上にはトラス構造のアーケードがあって灰色の冬の空が見えます。寒い! でも、私もそこで小1時間本を読んでました。くつろげる空間であることは確かでした。
■出張先の“みやこめっせ”は京都会館の向かい側でした。京都会館第二ホールは私が所属していた学生オーケストラの定期演奏会の会場でした。第一ホールが私が初めてバイオリンを弾いたステージでした。YMOとの出会いも京都会館でした。もう25年も前のことです。なつかしいけど今も新鮮な印象がありました。私は音楽を聴くときいつも“今”の聴き方をしてしまうからでしょうか。今と今に続く今が大事。
■映画「フォレスト・ガンプ」がテレビで放送されて録画したビデオをみました。彼は自閉症なのか…その設定はわかりませんが、この映画は「人間存在の根源をなすものについての示唆を与えてくれる」※ものであると思っています。人を信じることの大切さを教えてくれています。人を疑えないのが自閉症…誰もが人を信じたいと思っている。幼い頃からの父親との関係のトラウマを背負うジェニファが自分探しの旅の終わりに、人生の最後に信じ得たのがフォレスト・ガンプだったという設定は彼の存在の意味をいやがおうにも考えさせるのだ。また、彼の人生のトピックがアメリカの歴代大統領の変遷とタイアップして描かれていることも興味深い。この映画の文脈は深く重い。※(「…広汎性発達障害(=自閉症)は、発生機序も未だに解明されていませんが、人間存在の根源をなすものについての示唆を与えてくれる興味深い障害です。」(石川 2000))
■明日はポコ・ア・ポコです。子どもたちと会えることを楽しみにしています。