日別アーカイブ: 2019-11-10

高校の国語の教科書

先日、フリマサイトで『漢詩大系』全24巻を購入しました。古いもので函はヤケやシミがそれなりにあるものの全冊ともグラフィン紙の破れはなく、月報も揃っていました。大切に保管されていた本です。漢詩を広く網羅した全集を買い求めたのは古典の授業で下敷きとなった白氏文集などの原典を確認するためですが漢詩そのものに惹かれているという方が当たっています。漢詩はこれまで読み込んだことがないので新鮮に感じているのかもしれません。いずれにしても『漢詩大系』全24巻が手元にあるのでふと思い立ったときに作品に触れることができるのは幸せなことです。まさに古典の魅力です。

高校の国語の教科書の文学作品ははおとなのためのもので構成されています。国語総合で出会う芥川龍之介の『羅城門』は高校1年生にとって人間の陰の部分を目の当たりにさせられるのではないだろうか。結末は完結ではない。答えがない。もちろん勧善懲悪ではなくすっきりしない。ひたすら不確実性への耐性が試される。横光利一の『蠅』、井伏鱒二の『山椒魚』、夏目漱石の『こころ』も然りだ。そうした文学作品と哲学者が筆者の何割かを占める評論などとで教科書が構成されている。私が大学進学で実家を離れるとき真っ先に荷物に入れたのが高校の現代国語の3冊の教科書でした。人間の詩と真実、明と暗、どうにもならない日々を生きる人たちの血を吐くような苦しさを教科書で知ることは、しかし、思春期の若者を大きく成長させるきっかけとなるにちがいない。言語を通して生きることの苦しさや厳しさ、そして、喜びや豊かさを知るのだ。私は大学4年間に夏目漱石ばかり読んでいました。「漱石の憂鬱」に浸ったことが今の私につながっていると、この年になって実感としてわかるようになってきました。「漱石の憂鬱」は「西田幾多郎の憂鬱」でもあるのだろう。今、私は教育哲学のフィールドでその渦に巻き込まれようとしている。答えは死ぬまでわからない方がいい。