日別アーカイブ: 2017-07-19

佐野美津男「魔法使いの伝記」幾たびか

来週、新規採用と6年目、11年目の研修の講師を務めることになり、〆切を1日過ぎた今日、当日配布の資料を送りました。キーはやはり「言葉」です。そんなときいつも思い出すのはアメリカの「言葉」であり、佐野美津男の児童文学「魔法使いの伝記」と「翻訳の世界」(1989年2月号)に寄せた「ことばがきえる」です。その「翻訳の世界」がここしばらく見当たらなくて今夜も探したのですが見つからず、以前に書いたものを読み返しました。「魔法使いの伝記」は不思議な魅力がある本です。

無題(06/5/27)
■ふと思い出して本棚を探るときがあります。昨夜は『翻訳の世界1982年2月号』(日本翻訳家養成センター 1982)でした。特集は「童話 ことばのレッスン 分かりやすさだけでいいのか」です。この特集にある佐野美津男の「ことばがきえる」は初めて読んだときから強いメッセージ性を感じるものでした。この文章のどこが私をしてただならぬ胸騒ぎを覚えしめるのか。どんなときにそうなるのか。
■童話という言葉を童謡に置き換えると、やはり同じことが言えるのではないか。佐野美津男のテーマの横にはこの一文がある。「『いつまでもねんね』と思う親、いつしか自立していく子ども…共生的児童文学を断固として退け、子の成長を促せ。児童文学の真の成熟を!」 私も大人の逃避の対象となるような捏造された子どもの世界は受けつけられない。文学でも音楽でも同じだ。佐野美津男が引用するメルロ=ポンティの講義要録『言葉と自然』(滝浦静雄・木田元訳 みすず書房)では、「対人関係と知性と言語とは、直線状の系列や因果関係に配置されうるものではなく、ある人が生きている渦巻く流れに属しているのである。言語行為とは話上手な母親のことである、とミシュレが言っていた。ところで、言語行為は幼児を、あらゆる物に命名し存在を言葉にするこの母親とのいっそう深い関係に導きもするが、それはまたこの関係をいっそう一般的な秩序へと移調もするのである、つまり、母親こそが幼児に、まずは母親の直接性から遠ざかって行く回路-この回路を通って、幼児は必ずしもその直接性をふたたびみいだすとも限らないのだが-を開いてやるのである」とある。言語行為という単語にはフランス語の読みの「バロール」がルビとしてついている。これを音楽行為と置き換えた時、やはり私は共感する文脈を見いだすのだ。童謡なる音楽も幼児をいっそう一般的な秩序へと移調させる役割を本来担っているはずである。音楽と出会うことで子どもが自分を大切に思い、母親や友だちとの間で音楽を共有することで他者との関係性の築き方を覚える、つまり、一般的な秩序へと移調させていくのである。ただ、そうなればいいのであるが、一歩間違えると、母親なるものとの共生から自立できなくなる。音楽はその力の大きさゆえに音楽を扱う仕事に就く者の責任もまた大きいことを肝に銘じておくことが必須だ。
■若尾裕はカワイの『あんさんぶる』連載の「音楽は生きている」(No.423 2002年3月号「ナポリの音楽療法ヨーロッパ学術大会その2」にこう書いている。「Aという人とBという人との間に音楽が成り立つということは、この二人の間に共有の音楽文化があるということだ。ではAという音楽療法士と、Bという、例えば5才の自閉症児の間ではどうだろうか?やはり、AとBの間には共有の音楽文化が成り立つことを音楽療法の前提にしている。だが、こういった音楽文化については心理学や医学で論じることはまったくできないのである。科学の方法論では、なぜ音楽は存在するのかといった哲学的な問題は扱えないのだ。そこに関わることができるのは、哲学、美学、音楽学などの文系の学問なのである。」教育もそうなのだが、今は数値で評価を求められることが多い。アカンタビリティ(説明責任)を果たすプロセスの中でそうした量的評価も必要となる部分もあるが、音楽療法、教育とも、量的評価傾倒からの揺り戻しが始まっているように私は思えてならない。この流れは歓迎するものの、果たして、「哲学、美学、音楽学などの文系の学問」で語ることができる土台が音楽療法や教育の現場にあるのかどうか、危惧するところだ。いくら価値ある実践を積み重ねていても、そのよさ、価値を伝える言葉をもたないとそのよさも価値も伝わらないことが少なくないし、また、致命的なこともある。
■こうしたことをあれこれ考え、腑に落ちる言葉を探して綴っているのは、発達障害の子どもたちの成長とQOLの保障について考えることがこのところ多いからです。
■上田義彦写真集「at home」(リトルモア 2006)が届きました。B4版と小柄ですが、厚さはなんと3.3cmもあります。柔らかなトーンのモノクロはライカと銀塩フィルムの成せるところで、写し込まれた人の存在のリアリティとでもいうのでしょうか、日常の営みの意味の重みが伝わってきます。この写真集は一押しです。折しもSONYのデジカメ、サイバーショットR1のコマーシャルで“似た”写真を見ました。お母さんの胸に抱かれる赤ちゃんの写真です。レンズはカール・ツァイスです。でも、でも、ちがう。銀塩モノクロフィルムとはちがう。別物です。
■夜、NHK-BSで映画「今そこにある危機」“CLEAR AND PRESENT DANGER”を途中から観ました。主演はハリソン・フォードです。主役が徒党を組まない設定は映画のストーリーの定石ですが、ハリソン・フォードが演ずると格別の感銘があります。私も徒党を組まないことを肝に銘ずる。