日別アーカイブ: 2016-03-12

エル・システマ

今日、相馬子どもオーケストラがベルリン・フィルと協演したことがニュース番組の中で放送されました。2年前の4月6日日曜日の朝、NHKの「明日へ-支えあおう-桜を奏でて~福島・相馬「音楽」の絆~」で震災被災地でのエル・システマの活動が特集されました。(エル・システマについてはこちらから)怪獣の名前は「ラ」で終わるものが多いがオーケストラは「お金がかかる怪獣」だということを聞いたことがあります。奏でるのはちょっと取っつきにくい印象のクラシック音楽。ところがどうしてどうして、ベネズエラで始まったエル・システマの実績はそうした懸念を払拭するものであるばかりか子どもたちの成長に大きく寄与し、地域社会に力強いメッセージを発信するものとなっています。そのエル・システマが東北大震災の被災地で始まったのです。オーケストラの楽器はどれも簡単に奏でることはできません。一人ひとりの小さな努力と奏で合わせる営みの繰り返しです。子どもたちがそのステップを一つずつ進んで成長していく姿、それは、きっと豊かな未来があるという気持ちにさせてくれるのです。

音楽や美術などのアートそのものと音楽療法などのセラピーとの間、そもそも間があると言っていいのかどうかも吟味が必要なところですが、その間、ギャップのようなものはやはりあると思える場面は少なからずあるように思います。例えば、入院している子どもたちを対象とした音楽療法と、優れた演奏家の音楽に触れることは少なくとも同じではない。では、どこがちがうのだろうか。音楽療法が医師から処方されるなどの制度面のちがいではない。その場の音楽、奏される音楽、流される音楽そのもののあり様のことだ。このことはずっと私の中で渦巻いている疑問で、もしかしたらそうかも知れないと気づいたこと、それは、音楽を奏する者の音楽に対する謙虚さです。でも、これはアートとセラピーという間にあるのではない。そのどちらにいるかによるちがいではない。それはわかっているはずなのに、でも、アートとセラピーの間には何かしらのちがいがあるように思えてなりません。それともその場の人と人との関係性だろうか。音楽にふれるとき、私は、自分がアート寄りにいると思うとき、また、セラピー寄りにいると思うとき、そのどちらもあります。そもそもそれは両義性を含むことですが、でも、どうしてこんなにも悩ましいのだろうか。音楽を聴くだけだったら、たぶん、こんな悩みはないのだろう。音楽を意図的に使うとき、音楽にも人にも最大限の謙虚さと思慮深さを欠いてはならないことだけは確かだ