日別アーカイブ: 2011-11-13

靴、足、歩くということ

明日からの1週間に備えて靴を磨くと心構えまでシェイプアップされるようで、困ったことに眠気が遠ざかるように思えます。今日から新しい靴クリームを使い出したので塗りやすくて底革のサイドも色がよく着きます。私が持っている革靴は1足をのぞいて同じメーカーでトラッドとよばれるデザインのみです。それでもまだまだバリエーションがあって目移りしてしまいます。
いい靴は歩き方を矯正するのかも知れないと気づいたのは先日のこと。新しい革靴を履いたところ右外側のくるぶしが当たって痛みがあって、これは足に合わないのかと思って歩き方を工夫していたら歩き方が変わってきて痛みも前ほど感じなくなってきました。そういえば私が履く革靴の甲の部分は曲がり方が左右異なるのです。革のせいと思っていましたが同じ曲がり方が続くと自分の足のせいかと思えてくるわけで、これはリハビリに他ならない。
「モオツァルトは歩き方の達人であった」と書いたのは小林秀雄で、高校1年の実力テストでこの冒頭を目にした私は雷に打たれたような衝撃を覚えました。それからしばらくして、なぜかモーツァルトの鼻が気になって仕方がないというおかしなことを考えるようになりました。モーツァルトは自分の意志で歩いているのか、はたまた、鼻に引っ張られて歩いているのかということが気になって仕方がないのです。言い換えれば、自分の身体を自分で御し得ているかということです。もっと言えば、自分の中で湧き出る音楽を楽譜に落とし得ているかということ。芸術家が芸術家足り得る所以はそうしたパッションを自分のものにできるかどうかという際どさを自分のものにしているかどうかという才なのだろう。そのことを確かめるひとつの手段が歩くということなのだろうと思う。
足は自分の体重のすべてを支える部位であるということは地球の重力とうまく付き合っていく役目を担っているということ。感覚統合の根幹だと言える。しっかり歩いていきたいと思う。
今日はどこかからアンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」がかすかに聴こえてきて足を止めました。冬間近と思いました。