交流学習を始めるにあたって

この文書は私個人の意見です。
交流学習を始めるにあたって、ほんのちょっとわかってほしいな、と思うことをまとめてみました。
ご意見はメールにてお寄せください。
■交流は同じ眼の高さのおつきあいから
交流学習はボランティアや福祉の練習の場ではありません。お互いが対等に時間と場所、活動を共有し、人と人とのあたたかいふれあいを通して将来にわたる好ましい人間関係を育ててゆくものです。その中からボランティアや福祉の芽が育ってくるのはごく自然なことですが、はじめに同じ眼の高さのおつきあいの交流があるからこそ真のボランティア精神も育つのではないでしょうか。私たち教職員は今一度交流の原点に立ち戻って、交流をとらえ直したいと考えています。
■見つめあって、ふれあって、いっしょに笑って泣こう
おもしろいね、楽しいね、うれしいね、悲しいね・・・そんなとき、いっしょに笑ったり、泣いたりできる人が身近にいてくれることの安心感とやすらぎは誰しも同じはずです。重い障害がある人はまわりの人の助けがないと暮らしていけません。でも、「してあげる」「してもらう」という意識があると、いっしょに笑ったり泣いたりすることはできません。お互いが気まずい思いをして疲れるだけです。ゆったりとした時間の中で見つめあい、ふれあうことで心の底からともに笑ったり泣いたりできるのです。私たち養護学校の職員は子どもたちからたくさんの豊かなものを分けてもらっています。
■交流は双方が知恵と力を合わせて作り上げるもの
交流学習は双方の児童生徒にとって意義あるものとして行われています。でも、両校のちがいは求めるもののちがいにもつながっています。双方の求めるものをはっきりさせてつき合わせ、お互いを理解してさらに意義深い交流を実現してゆくためには交流学習にかかわる教職員の話し合いと協力が必要です。計画と運営はフィフティ・フィフティでいきましょう。養護学校のことがわからなかったらたずねてください。そして、養護学校にきていただいて短時間でもいいですから子どもたちといっしょに過ごしてください。
■交流の内容はゆったりと
大切な子どもたちをおあずかりする私たちは、ただでさえ少ない交流の時間を無駄にしてはならないと思って、次から次へと歌やゲームなどを続けてしまったりします。その場は盛り上がります。でも、両校の子どもたちがお互いを見つめあってふれあって、そして考えたり思いやったりするゆとりがそこに生まれるでしょうか。歌やゲームは集う楽しさを感じる交流には欠かせない内容ですが、交流中の移動とか待ち時間も同じように大切なものではないでしょうか。計画をたてて事前指導を行うときから私たち自身が豊かな気持ちを心がけて子どもたちと接したいものです。
■児童生徒への指導はそれぞれで
度会養護学校の子どもたちは年々障害が重度化しています。街で車椅子に乗った人を見かけることが多くなったとはいえ、初めて養護学校と交流をした子どもたちは強い印象をもちます。「病気?」「治るの?」「どうしてみんなと同じ学校に行かないの?」…障害がある子どもたちと家族が歩んできた日々の思いは障害のない人には想像できないくらい深く重いものがあります。一言で伝えられるものではありません。交流でともに過ごしたこと、感じたこと、思ったこと、考えたことは、交流が終わってから自分の力であたためなくてはならないものです。そうして時間をかけて深く考えながら子どもたち一人一人が答を見つけてゆきます。その過程で身近にいるのはそれぞれの学校の先生であり、子どもたちの家族です。いっしょに考えてあげてください。交流を行う学校の子どもたちへの指導をそれぞれの学校で責任をもって行う理由はそこにあります。
■交流学習をいっしょに育てていきましょう
ここまでお読みいただくと、交流学習の基本的な考え方は通常の小学校、中学校、高等学校での人権教育と同じだとお気づきだと思います。そう、それがノーマライゼーションの基本原理ではないのでしょうか。さあ、いっしょに交流学習を育てていきましょう。

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